永田町では「哲学者」「宗教家」の声も!? “知られざるエピソード”の宝庫・大平正芳の愛嬌



角栄とは肝胆相照らす間柄に

しかし、この2回目の選挙を辛くも乗り切った大平は、昭和35(1960)年7月に“親分”の池田が総理に就任すると、当選4回で第1次池田内閣の官房長官に就任。池田の大平に対する信任は、より一層、強いものになっていた。

一方で大平はすでに田中とも親交を結んでいた。

年齢は大平が8歳年上だが、議員としては田中が先輩で、2人は徐々に肝胆相照らす間柄になっていった。

じつは、その背景には2人の“共通項”があったとされている。

田中は5歳の一人息子を病気で亡くし、のちに大平もまた26歳の長男を難病で亡くしていた。

互いの胸の痛みが、よく分かるということであった。

そのうえで、まだクーラーもない時代に、木造の議員会館で2人の部屋は隣同士だった。

互いの部屋に入り込んでは、夏ならステテコ姿で扇風機を回し、政策論を戦わすなどして紐帯感を育んでいった。

やがて、2人は「盟友」関係となる。

互いを補完しつつ、後年、共に“天下”を取ることになるのだが、この過程では権力闘争には手練れの田中が、終始、大平に知恵を与え、尻を叩いていた形跡が残っている。

「アイツは宗教家だから、ワシらが動くしかない」と、田中が福田の総裁「再選」に待ったをかけ、田中派総動員で死力を尽くし、大平を総理(総裁)に担ぎ上げたのである。

その大平は昭和55(1980)年6月、史上初となる衆参ダブル選挙のさなかに倒れ、急性心不全で無念の死を遂げた。

歌が大嫌いで、死の床となる病院のベッドでもBGMの音楽を消させたなど、愛すべき人柄の大平は、隠れたエピソードが山のようにある人物なのである。

(本文中敬称略/この項つづく)

「週刊実話」2月27日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。