永田町では「哲学者」「宗教家」の声も!? “知られざるエピソード”の宝庫・大平正芳の愛嬌



そばにいるだけで気持ちがなごむ人柄

一方、時の実力者である吉田茂のメガネにかなった池田は、大蔵省事務次官から国政への道を歩むことになり、吉田内閣で1年生代議士ながら大蔵大臣に抜擢された。

蔵相に決まった池田は、大蔵省の後輩で屈指の秀才として聞こえた宮澤喜一と、この大平の2人を大臣秘書官に起用した。

大平が「私にはとても秘書官など務まりません」と辞退を申し出ると、池田は「まぁ、秘書官室に座っておればいいよ」と言った。

大平がそばにいるだけで、池田は不思議と気持ちがなごむのであった。

池田はそれくらい、人物としての大平を買っていた。

この親密な関係が昭和27(1952)年10月、吉田の「抜き打ち解散」による総選挙に、大平を担ぎ出すことにもつながった。

池田は当時の中選挙区《香川2区》から、嫌がる大平を半ば強引に出馬させたのである。

ちなみに、この《香川2区》は小選挙区となり、現在は“時の人”でもある国民民主党の玉木雄一郎代表の選挙区となっている。

さて、初出馬で当選を果たした大平であったが、2回目の選挙は油断も手伝い誰もが苦戦するという。

これはいまだ政界の「定説」であり、大平も同じであった。

情勢はかんばしくなく、大平後援会の幹部は窮余の一策として池田に直訴、吉田総理の香川入りを仰ぐことが決まった。

しかし、吉田の応援があれば千人力と思っていた大平は、いささか肩を落とすことになる。

大平後援会所属の一人が、筆者の取材時にこう述懐してくれた。

「2回目の選挙は本当に悲惨でした。観音寺の演説会場に“吉田ワンマン”が入ってくれたのはよかったが、演壇の傍らにいる大平を指して、『私の最も信頼するオオダイラ君であります』とやってしまった。そのせいで『名前を間違えられるくらいだから、大平はたいした男じゃないようだ』と受け止めた聴衆も多く、話が広がってむしろ苦戦の展開となったのです。これにはさすがに大平もショックを隠せず、『俺はこの選挙で落ちたら政治家を辞める。どうも俺は、勝負事には向かんようだ』と、弱気丸出しでした」