総理引退も妻には一切相談ナシ! 竹下登が「師匠」とあがめた無頼な庶民派・佐藤栄作の“威光”



墓誌銘には「拒まず追わず競わず随わず…」

寛子夫人が見たその『良寛戒語』のコピーには、次の5つに丸印が付けてあった。

一、言葉の多さ

一、口のはやさ

一、さしで口

一、能く心得ぬことを教ふる

一、すべて言葉は惜しみ言ふべし

寛子夫人は、のちに佐藤の死を振り返って、筆者にこう語ってくれた。

「入院中の主人の体をつねってみたけど、いびきをかき続けているだけ。それでも、死に至るとはこれっぽっちも思っていなかったのです。その後、主人はいつまでたっても意識不明で、眠ったままでしたが。眠り続ける主人を見ながら、私は主人が意識を回復したらまず何を言おうか、そんなことをしきりに考えていたのを覚えています。結局、16日間も意識不明のまま臨終を迎えたわけですが、この期間は『このへんで死んだら寛子も諦めてくれるだろう』といった栄作の気遣い、精いっぱいの“演技”じゃなかったかとも思っておるのです。倒れてすぐ死んだら、私は間違いなく狂っていたと思います。それにしても、夫婦というものは愛しているとすぐ迎えにくると言いますが、栄作は…。『良寛戒語』については、私は栄作に『あなたが私のために丸印をつけたのか』と質したことは、一度もありませんでした」

その寛子が、佐藤のいる泉下に旅立ったのは、佐藤の死去から12年後の昭和62年4月、佐藤を政治の「師匠」としていた竹下が、悲願をかなえ総理の椅子に座った年であった。

昭和50年6月16日、日本武道館で国民葬が営まれた佐藤の戒名は「作願院釋和栄」であった。

その墓誌銘の末尾は、次の一節で結ばれている。

「銘に曰く。拒まず追わず競わず随わず、縁に従い性に任せ命を信じてなんぞ疑わんや」

重厚なたたずまいの政治手法が売りの佐藤ではあったが、素顔はパチンコ、競馬、芸者をあげての宴会が大好きな“庶民派”であったことは、あまり知られていなかったのだった。

(本文中敬称略/次回は田中角栄元首相)

文/小林吉弥

「週刊実話」12月26日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)

政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。