総理引退も妻には一切相談ナシ! 竹下登が「師匠」とあがめた無頼な庶民派・佐藤栄作の“威光”



黙って示した90カ条もの『良寛戒語』

来客の往来で取り込んでいた佐藤家の台所に、次々と惣菜などを盛りつけた丼が届けられた。

どれもこれも家庭の味で、忙しく立ち回っていた家人たちはその差し入れで空腹を癒やし、なんとか一息つくことができた。

食べ終わって誰からの差し入れかと話し合っている中、ふと器を裏返すと「竹下」の名入りであった。

寛子夫人と竹下の直子夫人は普段から仲が良く、近い将来、竹下に天下を取らせたい直子夫人の“差しがね”と思われた。

居合わせた人たちは、さもありなんとうなずき合った――。

田中派では御大の田中角栄に疎まれていた竹下だったが、佐藤の死後、その邸宅は竹下に貸し出された。

その後、竹下は佐藤の威光によるものか、その邸宅に住んだことで縁起が通じたか、総理大臣の椅子に座ることになる。

竹下が借り受けて入居したのは、自民党総裁に決まるわずか1週間前。時に、竹下の天下取りにノーを出し続けた田中は、すでに病魔に倒れて政治生命を失っていた。

さて、佐藤が亡くなる1年ほど前のこと、寛子夫人は前回で記した通り、寝室のテレビの上に置いてある1枚の紙切れを発見した。

これを見ると90カ条から成る『良寛戒語』のコピーであった。

良寛とは、1700年代後半から1800年代前半にかけて活躍した僧侶、歌人である。

越後(新潟県)出雲崎の名主、橘屋山本家の長男として生まれたが、俗事に嫌気がさして弟に家督を譲り、18歳で出家。約20年間、放浪の旅を続け、修行を重ねた洒脱な人物であった。

また、日がな子供たちと時間を忘れて遊び、近くの農民たちと酒を酌み交わすなど、心優しい人物としても知られていた。

あるとき、良寛の住む小さな庵に泥棒が入ったが、布団以外に持っていくものがないので、盗みやすいようにあえて寝返りを打ってやったなどの話もある。