「黙々栄作」と呼ばれた佐藤栄作の意外な素顔 妻が語った“もう一つの顔”「男なら手を出す遊びはひと通りやっておった男なんです」

「黙々栄作」の異名を持つ堅物

一方、佐藤には「黙々栄作」の異名があり、多くを語ることなく堅物の印象が強かった。筆者はこの佐藤から現在の石破茂まで、じつに27人の総理を取材してきているが、国会の赤じゅうたんを衛士や秘書官らに取り囲まれながら闊歩する姿は、ダンディーかつ好男子でもあっただけに、さながら歌舞伎の市川團十郎が花道で見栄を切るがごとくの重厚な華やかさがあったものだった。

そうした雰囲気を醸した総理は、残念ながら他には一人としていなかった記憶がある。

まさにそうした「黙々栄作」について語ったのは、佐藤の妻である寛子だったが、彼女は一方で世評とはいささか違う夫の“もう一つの顔”を明らかにしてくれたものであった。

筆者は「佐藤総理」を取材する過程で、この寛子夫人からも多くの話を聞いた思い出がある。夫人の印象は、総理夫人としては珍しく自由闊達にして、夫・栄作とはまるで異なる何事も腹にしまっておけないざっくばらんな性格のようであった。

ためか、冒頭の話の一方で、まさに“包み隠さず”こんな秘話を語ってくれたのだった。

「結婚当初は安月給で、見つかったら恥ずかしいので周囲をキョロキョロ、一、二の三で質屋に飛び込んだこともしばしばでした。当時の栄作は部下もいれば付き合いもあるから、芸者をあげてのドンチャン騒ぎも必要だったのか、家計費の半分は飲んじゃうんです。世間の印象とは、まるで違うんですよ。
じつは好きなゴルフや釣り以外にも、バー通い、麻雀、競馬、パチンコと、男なら手を出す遊びはひと通りやっておった男なんです。
競馬は“堅い”馬券専門、ことのほかパチンコ好きで、代沢(東京都世田谷区)の自宅から歩いて10分ほどにある下北沢のパチンコ屋へよく行っていました。栄作は『花輪が出ている店はよく入る』と言いながら、しばしばチョコレートなどが入った景品の袋を抱えて帰ってきたものです。
もっとも、大蔵大臣(昭和33年6月の第2次岸信介内閣)になったのを境に、警備上の問題からフラリと出掛けることはできなくなりました。好きなパチンコはこれにて“打ち止め”になり、しばし手持ち無沙汰のようでしたね」