
フライデー襲撃事件の翌年、たけしがテレビに復活すると、事件前と同じようにレギュラー番組を多く抱えるようになり、映画監督としても評価され、物凄く忙しくなった。
フジテレビで深夜に『北野ファンクラブ』という冠番組をやってたでしょ。一緒の番組に出れば、毎週収録の後、一緒に飲みに行けるからと、俺のことを無理やりレギュラーにしてくれたんです。番組内の『B&Beat』というコーナーで、2人で漫才をしていたんですよ。
収録が終わると、毎回飲みに行きましたね。酒飲みだと分かると思うんだけど、飲みに行って帰る時が寂しいもんでしょ。飲むと、たけしが借りていたマンションに「泊まれ」って言うんです。たけしは夜中まで飲んでも、忙しいから翌朝10時頃には弟子が迎えに来て仕事場へ行く。家を出る前に、俺が寝ているところへ来ては「行ってくるからよ。いいな、まだ寝る時間があって」などと声をかけていくんです。
当時の俺は冠番組こそなかったけど、コーナーのレギュラーが3本くらいあった。まあまあ暇だったんですよ。だから昼すぎまで寝てるんだけどね。起きると、いつも枕元に2万円くらい置いてあるんです。申し訳ないから、そのお金で一度鍋をつくったんです。そうしたら「美味しい、美味しい」と喜んでくれてね。「洋七は料理が上手いから部屋で待っていて、またつくって」と催促されました。
たけしとはケンカをしたことが一度もない
それからは、泊まって料理を作るようになったんですけど、最初は週1日だったのが、3日に1回、2日に1回と頻繁になっていった。弟子が、たけしをテレビ局に送って、午後3時頃に俺を迎えに来る。それで枕元に置いてあるお金を手に、リムジンでスーパーへ買い出しに行くんですよ。
そのうちスーパーのレジのおばちゃんとも仲良くなって、「いつも来るけど、何人で住んでるの?」って聞かれてね。軍団や弟子の分の夕飯もつくるから、7~8人分の材料を買っていた。おばちゃんも不思議に思ったんやろうね。
たけしの家に戻って、夕飯の支度をしていると、現場の弟子から〝何時に戻る〟と電話が掛かってくるんですよ。たけしが帰ってくる時間に合わせて料理ができるようにしていましたね。温かいほうが美味しいでしょ。そんな生活が6~7年続きました。
その時に凄く感じたのは、たけしは本当に優しいんですよ。俺の布団がはだけていると「風邪引くぞ」って布団を直してくれたり、枕を正してくれたりね。
北野ファンクラブだけでなく、他にも、たけしの番組にはちょくちょく出させてもらってたんですけど、「洋七、俺の番組に出るか?」なんてことは絶対に言わないんです。番組スタッフから「スタッフ会議で、うちの番組にどうしても洋七さんに出ていただきたいと思いまして」と電話が掛かってくるんですよ。多分、たけしがスタッフに言ってくれてたんやろうね。彼の心遣いよね。
たけしとは多い時で2日に1回は一緒にいたけど、ケンカをしたことが一度もないんですよ。彼とはなんかウマが合うんですよね。
島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。