「こんなことで自民党が良くなると思ってんのか!」暴言、失言、トラブルの宝庫 国会の暴れん坊・浜田幸一が心掛けた“ヤジ三原則”

「ミヤザワケンジ君は人を殺した」

 78年3月の成田空港管制塔占拠事件に際しては、浜田が「『火炎瓶攻撃を仕掛ける者があれば射殺せよと命令する責任がある』と首相(福田赳夫)は明言すべきだ」と強硬論を主張し、物議を醸した。

 80年3月にはロッキード事件における賄賂の一部が、米国ラスベガスのカジノで浜田がつくった約4億6000万円もの借金返済に充てられたことが報じられた。

浜田は「ロッキード事件と関係するようなことは絶対にない」としながらも、自民党を離党し、議員辞職に至っている。

 それでも83年の総選挙で当選し復活、88年には衆議院予算委員長となった浜田だが、ここでさらなる舌禍事件を引き起こす。

 同年2月の予算委員会で日本共産党の議員が質疑中、浜田は唐突に「ミヤザワケンジ君(宮本顕治の誤り)は人を殺した」などと共産党批判を始めた。

宮本は当時の日本共産党議長で、人殺しとは戦前の「スパイ査問事件」を念頭に置いたものだった。

 この発言に対しては、野党だけでなく自民党内からも激しい批判の声が上がり、それから約1週間にわたって予算委員会の審議はストップ。最終的に浜田は安倍晋太郎(当時の自民党幹事長)の説得に応じて辞任したが、野党側の求めた議事録からの発言削除は最後まで拒否し続けた。

 その後、90年の総選挙に出馬して当選はしたものの、暴漢に金属棒で殴られ負傷し、失語症の傾向が出たことにより政界引退を決意。次の選挙では地盤を長男の靖一に移譲した。

なぜ浜田が襲われたかについては、思い当たる節が多すぎて、はっきりしたことは分かっていない。