手塚治虫「あんなものは漫画ではありません」石ノ森章太郎『ジュン』が連載中止になりかけた“迷言”

手塚治虫
漫画と呼ばれるものは戦前から存在していたが、手塚治虫はコマ割りや絵の構図でスピーディーに読ませる工夫、絵と擬音だけで心情や状況を表現する手法、人間の二面性や生命の尊厳をテーマにした深いドラマづくりなど、今日につながる数々の表現方法をディズニー映画などを参考にしながら確立し、漫画文化の基礎をつくり上げた。

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小学生の頃からストーリー漫画を描き始めた手塚は、戦時下でも筆を折ることはなかった。

そうして終戦後の1947(昭和22)年には、日本漫画の原点ともいわれる『新宝島』を発表。ちなみに同書の初版本は3冊の現存が確認されていて、古書店での販売価格は約300万円にもなるという。

戦後のまだ漫画雑誌が存在していなかった頃、子供向け漫画は主に駄菓子屋で売られたり、貸本屋に置かれたりしていた。

そんな中で手塚の『新宝島』は異例の大ベストセラーとなり、以後もヒット作を連発。少年向けの漫画誌が誕生すると『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』などが連載され、大いに人気を博した。

なお、この時期の手塚は大阪帝国大学附属医学専門部に在学中で、何本もの連載を抱えながら52年には医師国家試験にも合格している。

その後も少女漫画の『リボンの騎士』や青年向けの『火の鳥』など、さまざまなジャンルにおいて名作を生み出し、手塚は20代にして漫画界の頂点に君臨する。

だが、トップとしてのプライドは手塚自身を苦しめることにもなった。

60年代に現実社会の闇を描く大人向けでハードな絵柄の「劇画」がブームになると、手塚は自分の作風とは異なるそれらがヒットしていることに対し、ノイローゼになるほど懊悩したという。

その挙げ句、精神鑑定を受けたという逸話も残されている。

また、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が人気を呼べば、「絵が汚い。あのくらい、私ならいつでも描けるんですよ」と吐き捨てて、その一方では明らかに妖怪ブームを意識した怪奇漫画『どろろ』の連載を始めたりもしている。

さらに、熱心な漫画ファンから「石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)の『ジュン』という作品が好きだ」という手紙が届くと、手塚は「あんなものは漫画ではありません」という内容の返信をしたという。

石ノ森の『ジュン』はセリフがほとんどない実験的な作品で、手塚は自分が手がけたことのない作風の漫画が高い評価を得ることに我慢がならなかったのだ。

そうは言うものの『ジュン』は、手塚が創刊した漫画雑誌『COM』の連載作品であり、それを頭から否定するのはあまりにも常識外れだった。

このことを伝え聞いた石ノ森が連載の中止を申し出たのは当然のことで、これに対して手塚は「自分でもどうしてあんなことをしたのか分からない。自分で自分が嫌になる」と謝罪している。