ロッキード事件で「記憶にございません」が流行語に 田中角栄と固い絆で結ばれていた“昭和の政商”小佐野賢治の半生



巧みな政界工作で事業拡大


帰国後、自ら自動車部品会社を設立した小佐野は、郷土の先輩である田邊七六(立憲政友会幹事長)に取り入り、多額の賄賂を送るなどして軍需省からの受注に成功する。

軍需関連の仕事ということで徴兵の義務から外れ、戦時下でありながらビジネスに専念。この時期に莫大な財産と広い人脈を築き上げた。

戦後は日本各地のホテルを買収するとともに、バス事業に進出して国際興業を立ち上げた。

48年にはガソリン不正使用の疑いでGHQ(連合国軍総司令部)に逮捕、収監されるが、釈放後には以前にも増して精力的に事業を展開していった。

当時は多くの闇物資が流通しており、ことさら小佐野が悪事を働いていたというよりも、派手な稼ぎぶりが目をつけられたものと思われる。

そんな中で顧問弁護士が同じという縁から、田中角栄と知己を得る。

小佐野は田中の日本列島改造論に便乗するように、交通・観光事業を拡大する一方、田中が総理大臣になるまでの工作費用として、数十億円にものぼる資金を提供したともいわれている。

以前は小佐野も参院選出馬を考えていたが、この頃には「政治家になるより政治家を使ったほうがいい」と話していたという。

ロッキード事件の答弁から小佐野は腹黒いイメージを持たれがちだが、実際に会ってみると物腰が柔らかく温厚な雰囲気で、商取引では相手に押し切られることもあったようだ。

また、小佐野は誰よりも早く出社して、本社ロビーのソファで新聞を読みながら、出勤する社員たちに朝の声掛けをするのが常だった。

ロッキード事件においては、そのふてぶてしい態度とは裏腹に相当なストレスを受けていた。

有罪判決を受けてからは杖を手放せないほどに衰弱し、ある日、腹痛に耐えかねて緊急手術に及ぶと、がんが体中に広がっていた。

死の間際には「10兆円もの財産を持って何不足ないといわれるが、本当は寂しいんだ」とも話していたという。

没後には妻が小佐野記念財団を設立。故郷の山梨県における文化やスポーツなどの国際交流を図るべく、山梨県内の個人、または団体に対して広く助成金を交付している。

(文=脇本深八)

小佐野賢治(おさの・けんじ)

1917年2月15日生まれ~1986年10月27日没。山梨県出身。国際興業グループの創業者。軍部への自動車部品納入で財をなし、戦後、強羅ホテル、熱海ホテル、山梨交通などを買収。47年に国際興業を設立した。のちに首相となる田中角栄と密接な関係を築き、ロッキード事件では81年に実刑判決を受けた。控訴中の86年に死去。