ロッキード事件で「記憶にございません」が流行語に 田中角栄と固い絆で結ばれていた“昭和の政商”小佐野賢治の半生

小佐野賢治

がっしりとした恰幅のいい体躯と、頭頂部が尖ったはげ頭。いくらか背中を丸めて答弁席の机に両手をつくと、“昭和の政商”“財界の首領”などと呼ばれた小佐野賢治は、「記憶がございません」「記憶はありません」と繰り返した。

1976年2月、アメリカ上院外交委員会において、ロッキード社が航空機売り込みのために、各国の政府高官へ多額の賄賂を渡していたことが発覚する。

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時の総理大臣だった田中角栄とは、刎頚の友といわれるほど固い絆で結ばれていたとされる小佐野は、ロッキード社からの賄賂を政界にばらまく工作に関与した疑惑を持たれていた。

衆議院予算委員会で証人喚問を受けた小佐野は、野党からの矢継ぎ早の質問を受けながら、知らぬ存ぜぬで押し通した。

ちなみに、小佐野がこのときに発した言葉は「記憶にございません」と伝えられているが、実は「記憶に~」と証言した記録は残っておらず、正確には「記憶が~」「記憶は~」と言っていたようだ。

ともかく、この証人喚問の模様はテレビ中継され、たちまち「記憶にございません」は流行語となった。

近年も厳しい質問を受けた者が苦し紛れに「記憶に~」のフレーズを使うことはよくあるが、振り返れば、その元祖は小佐野だったのだ。

ただし、このときは偽証罪で実刑判決が下されている(控訴後に小佐野が死去したため控訴棄却)。

少年時代の小佐野は自宅がなく、寺の軒先を借りて過ごしたほどの極貧生活を送っていた。

14歳で上京して自動車部品会社に就職すると、ここで3年ほど商売の基本をみっちり学んで転職。この際、顧客をごっそり奪ったせいで、元の会社は窮地に陥っている。

さらに、転職した会社も程なく倒産するのだが、その後、やたらと小佐野の羽振りがよかったことから、「計画倒産させて資産を奪ったのではないか」と、真偽不明の噂を立てられたりもした。

37年には徴兵により陸軍に入隊。中国戦線へ出征するが、すぐにマラリアを発症して内地へ送還される。

なお、この後遺症で20代にして頭部がはげ上がってしまったのだという。