萩原佐代子の壮絶すぎる人生 戦隊ヒロインから銀座のホステス、米国留学を経て2度の結婚と離婚を経験「母親は愛人!?だったんです」

萩原佐代子 (C)週刊実話Web


カネボウのキャンペーンガールから特撮ドラマのヒロインへ。萩原佐代子は『ウルトラマン80』(TBS系)、『科学戦隊ダイナマン』『超新星フラッシュマン』(ともにテレビ朝日系)という、日本の特撮ドラマの2大シリーズのどちらにも登場した稀有な存在だ。

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その萩原が、引退や2度の結婚を経て4年前から女優活動を再開。映画やイベントへの出演を積極的に行っている。

その波乱万丈な人生を振り返ってもらった。

――芸能界デビューは15歳で応募したカネボウのキャンペーンガールでした。

萩原「実は、家庭教師の先生が推薦してくれたんです。全国大会で優勝したのは松原千明さん(享年64)。すみれさんのお母さんで、石田純一さんの前の奥様ですね。私はアイドル賞というのをいただいて、CMやグラビアに出させていただきました。ただ、当時からグラビアアイドルは胸もお尻もバーンという感じで、ガリガリの私はちょっと異色。そこを面白がっていただいたのか、『ウルトラマン80』のプロデューサーさんが起用してくださったんです。50話中の最後の8話で、私はウルトラの星の王女役(星涼子/ユリアン)。長谷川初範さんや石田えりさん、中山仁さんら大スターに交じって巨大化してました(笑)」

――当時は大手の事務所に所属していたから、仕事はどんどん舞い込んだ?

萩原「そうですね。ありがたいことに、ウルトラマンの後はまた変身もので『科学戦隊ダイナマン』のダイナピンク役でした。その間にもクイズ番組のアシスタントやグラビアの仕事で休みなし。それなのに、お給料制なので手取りが7万2000円止まりだったんです。家庭の事情で大学の学費は自分で払わなくてはならず、『こんなに働いてるのにお洋服も買えない』と、事務所に直談判したら15万円に上げてもらえたけれど翌月から仕事はパッタリ。『小さな事務所に行けばもっと目をかけてもらえるかも』と移籍しました。考えが子どもだったんですね」

――移籍して変化は?

萩原「それまではレギュラー出演ばかりだったのに、オーディションを受けても決まるのはゲスト出演ばかり。グラビアの仕事だけはどんどん増えていき、ついに『艶系写真集を出さないか』というお話が来たんです。ギャランティーは100万円。事務所が4割持って行っても、私の手元には60万円! ひとり暮らしをしていたので、しばらくの間の家賃と生活費が払えると思い、勇気を振り絞ってお受けしました。でも、それからは来る仕事が全部艶系になってしまったんです」

萩原佐代子 (C)週刊実話Web


――「もう辞めようかな」と思ってしまいますよね。

萩原「ある大きな仕事のオファーもいただいたのですが、演技にも体にも自信がなくて、引退して海外留学しようと考えたんです。私のことを誰も知らないところで生活してみたかった」

――それには資金が必要となる。

萩原「どうやってお金を作ろうかと考えていたときに見つけたのが、銀座の高級クラブのホステスさん募集の広告でした。渡辺淳一さんの『化身』のモデルになったとされるお店。私は素人なのでヘルプでしたが、それでも時給は4000円。1日1万6000円のお給料がいただけました。ただ、素性がバレたくないので、田舎から出てきたばかりの小林えりという設定で。実際には面接の方が私の写真集などを持っていて、心情を察してくれて名前を変えてお店に出してくださったのですが…」

――家庭の事情と仰いましたが、差し支えなければ教えていただけますか?

萩原「実は私、生まれてすぐ父親に捨てられたんです。ただ、事情を知らない私は、中学くらいまでの遠方への送り迎えは運転手付きのキャデラックだったりしたので、お金持ちの娘だと思っていました。母親は愛人!?だったんです。私が父親と思っていた人は、奥様と一緒に事業を立ち上げたため離婚ができず、母は日陰の身になったと聞いています。その方も高校に入ってまもなく会社が倒産し、私は自力で稼ぐしかなくなったんです」