「投票するヤツはアホや」傷害事件、無免許運転、泥酔テレビ出演…破天荒芸人・横山やすしが相方にイチャモン!

横山やすし

昭和のレジェンド漫才師として語り継がれる横山やすし。「怒るでしかし!」の決めゼリフや「メガネ、メガネ…」と舞台をうろつく軽妙なアクションで、多くの観客を沸かせてきた。

乱暴者のイメージも強いが、漫才に関しては真剣そのもの。お客さんの前に出る以上は当然のことだとして、毎日、床屋で調髪し、衣装のスーツも常にシワひとつなくピシッと決めていた。

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中学生の頃からしゃべりは達者で、同級生とのコンビでラジオの素人参加番組に出演。高い評価を得ると、中学卒業と同時に松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社した。

しかし、いくら達者とはいえまだ子供。大人の客が集まる劇場では笑いを取れずにコンビは解散し、一時は引退してボートレーサーになることも考えた。

これは視力が基準に満たず諦めたが、途方に暮れていたところ横山ノックに声を掛けられ、内弟子となって吉本興業へ移籍する。

生来の激しい気性から相方はなかなか定まらなかったが、吉本新喜劇の研究生だった西川きよしを紹介されると、やすしは一目見て気に入った。

当初、きよしは首をタテに振らなかったが、熱心に勧誘を続けた結果、1966年に横山やすし、西川きよしのコンビが結成される。

やすしの刺々しい才気をきよしの善人性が緩和する「やすきよ」漫才はたちまち評判となり、結成から間もなくして上方漫才大賞の新人賞を獲得。全国放送のテレビ出演を果たすと、70年には上方漫才大賞の大賞を受賞した。

やすし26歳、きよし24歳での受賞は、89年にダウンタウンが25歳で同賞を受賞したことに匹敵する。

やすきよの時代は漫才師の数が少なかったとはいえ、今より年功序列の気風が強かったことを思えば、この受賞がいかに快挙であったかがうかがえる。

だが、好事魔多し。70年12月、やすしは運転中にタクシーとの接触事故を起こしてしまう。

相手運転手への暴行に加え、飲酒&無免許運転というあからさまな不祥事で、執行猶予付きとはいえ有罪判決となり、長期の謹慎を余儀なくされた。

それでも、この期間にきよしが単独で知名度を上げたこともあって、やすしの復帰後にはやすきよ人気が大爆発。77年には乗車したタクシーの運転手に「昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と暴言を吐いて侮辱罪で告訴されたが(刑事事件としては不起訴)、このスキャンダルもネタにして、80年から始まった漫才ブームを牽引することになる。

しかし、その一方で『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ系)に泥酔したまま出演するなど、奇行が目立ち始める。

生放送中に国会議員を罵倒したことが問題視されると、次回放送時に「×」の書かれたマスクを着けて「黙秘権や」と、だんまりを決め込んだこともあった。

84年に無断で出演をすっぽかしたことで、やすしは同番組を降板。吉本興業から無期限謹慎処分を受ける。