八代亜紀さん(C)週刊実話Web
八代亜紀さん(C)週刊実話Web

八代亜紀さんの知られざる熱愛秘話①妻子あるレコード会社幹部と…【週刊実話お宝記事発掘】

当時の亜紀について、クラブのママが述懐する。


「亜紀ちゃんの日給は七千円だったはずよ。でも、(昭和)四十五年と覚えてるけど『レコード出したからキャンペーンに行く』と言って出てったまま戻らなかったわ。借金、といってもお客のツケだけど、三十万円か四十万円残したままね。まあ、お嬢さんタイプで礼儀正しく、お客の評判もよかったけど、ホステスとしては失格でした」


【関連】松坂慶子“恋多き女”お色気レオタードと網タイツの中身【週刊実話お宝記事発掘】 ほか

このクラブには「三谷謙」という歌手もいた。のちの五木ひろしである。


「五木とは親しくしていて、あれこれ面倒をみてもらっていたんじゃないかな」(同)


これは確かで、テイチクに入社できたのも五木の紹介と、隠れた骨折りによる。


四十七年には、亜紀は『愛は死んでも』というデビュー・レコードが出せた。


でも、ほとんど売れなかった。高田馬場のアパートで自殺未遂をしたのは、それに悲観してのことだった。


まともに三食とれる経済状態ではなかった。三食を二食に減らしても、それがインスタント・ラーメンというありさまで、テイチクもサジを投げた状態で冷たかったのだ。


お人好しの五木は、自分も似た境遇にありながら、その亜紀を支援。「日本テレビ『全日本歌謡選手権』に挑戦して十人抜きを果たし、捲土重来をはかるべきだ」などとアドバイスする。


亜紀は再びやる気になり、見事十人抜きを果たしてテイチクも亜紀を見直す。

「アパートまで送ってあげるよ」

かくて、出世作となった『なみだ恋』が歌えたと言いたいところだが…。

「もし仮にそのとき、プロデューサーをしていたテイチクのN氏がいなければ、『なみだ恋』も確実に別の歌手に歌われていたはずだ」(音楽関係者)


テイチクに「新曲の打ち合わせをしたいから」と呼び出された亜紀は、その席で初めて16歳年上のN氏と会う。だが、お互い意識せずに別れる。


玄関に立った亜紀は、とまどっていた。


虎ノ門から新橋まで歩き、国電に乗れば高田馬場までは帰れるが、食事できる持ち合わせはまるでなかったからだ。


マイカーを運転し、帰宅しようとしたN氏の目に、その亜紀の姿が入った。


亜紀の表情から、おおよその見当はつく。「アパートまで送ってあげるよ」と声をかけた。


亜紀は、これまでの苦しい生活を車のなかで隠さず打ち明けた。


N氏は同情した。亜紀はよろこび、アパートに送ってもらったあと、どんな態度を示したかについては、想像におまかせする。


自分の権限で、どうにでも歌手は選択できるプロデューサーのN氏は『なみだ恋』を亜紀に与え、大ヒットしたのだ。


以後、亜紀はプロデューサーから制作部長に出世した彼を決して手離さなかった。


しかし、N氏には妻子がいたのである。


『八代亜紀さんの知られざる熱愛秘話②立教大学出の青年との“婚約破棄”』を読む