終戦の年の昭和20(1945)年11月、時に27歳だった「田中土建工業」の田中角栄社長は、同社で顧問を務めていた日本進歩党幹部の大麻唯男代議士から、同党の総裁争いのための資金を無心され、現在なら5億円ほどに相当する100万円をポンと提供してみせた。
この大胆ぶり、気前のよさに目を見張った大麻は、無心話から2週間後、再び田中に会う約束を取り付けたのであった。
すでに、衆議院の解散も近いことから、次の選挙に出馬してみないかとの打診であった。政界の〝寝業師〟として定評のあった大麻は、こう田中の心を揺さぶったのである。
「あたしはね、田中しゃん、あーたに惚れておる。頭は切れる、実行力もある、カネも切れる。こういうしぇいねん(青年)こそを、今の日本は求めておる。しかるに、わが党にはなかなかいい候補者がおらん。あーたは(総裁選用の資金で)あたしを助けてくれたが、こんどはしぇいねんとして、何とか国家の再建に力を貸してもらえんものか。是非、立候補してくれましぇんか。あーたは15万円ほどのカネだけ出して、黙って1カ月おみこしに乗っておればよろしい。あたしが当選を請け負いましゅ」
しかし、田中は迷った。15万円(現在の約7500万円に相当)は田中にとって大したカネではなかったが、いざ政治の世界へ身を投ずることになれば、事業がおろそかになる。もとより事業を放り出すことはできぬで、まさに「人生の岐路」に立ったということだった。
田中は、大いに迷った。戦地の満州で、戦争が終わったら代議士になるとの思いを強くしたが、順風満帆の事業を目前にすると、未知なる政治の世界への転身は、そう簡単に結論の出せるものではなかった。田中は2週間、考えに考え抜いて、ようやく「人生の岐路」を曲がることを決断したものだった。
初の出馬は次点で落選…
のちに首相になった際、その政治姿勢を示すキャッチフレーズについて「決断と実行」と定めたように、一度こうと決めた後の田中は、何事にもブレを見せないのが特徴だ。
「乗るか反るか。チャンスは見極めが大事だ」は、本当のチャンスはめったに来るものではないがゆえの、のちの田中の名言である。そのうえで、ひとたび決断したあとは、何事にも一気にエンジン全開となるのが、若き日からの一貫した田中の〝生き方〟の特徴だったのである。
この戦後第1回目となる昭和21年4月11日開票の総選挙は、大選挙区制で田中の〈新潟2区〉は定数8、立候補者は37人で、結果的には田中は3万4000票を取ったものの、11位での次点で落選した。
その背景は、端的に言うなら選挙戦略の失敗にあったのである。
例えば、田中は立会演説会となるとわざわざ散髪をして下着まで替え、モーニング姿で登壇した。他の候補者を見れば、終戦直後だけに泥だらけのゴム長靴にヨレヨレの詰襟の国民服といった具合で、いささかおしゃれな田中候補は〝異色〟そのものであった。
「モーニングを脱げッ」の野次はモンペ姿の女性からといった具合で、とくに社会党、共産党の候補などは「民主主義下におけるわれわれ農民と労働者は」「憲法○条は」など、この国の民主化に言及する演説が多かったが、田中のそれは有名な、かの〝三国峠演説〟一本槍であった。
「皆さーん、こ、この新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまえば、日本海の季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなるッ。皆が大雪に苦しめられることはなくなるのであります! ナニ、切り崩した土は日本海へ持って行く。埋め立てて、佐渡を陸続きにさせてしまえばいいのであります」
後に著す「日本列島改造論」への“芽”
一見、大ボラめいたこの演説には雪国・新潟の忍従を晴らし、太平洋側と日本海側の経済を含めた格差の是正をとした、のちの「日本列島改造論」への〝芽〟が、すでにうかがえたのであった。
しかし、社会党や共産党候補による「民主主義」「憲法」といった演説に比べると、聴衆の反応はイマイチであった。
さらに、選挙の票集めのために、例えば魚沼地方の有力者に10万円(現在の5000万円に相当)を渡したものの、この有力者がまったく票集めに動かず、連日、新潟の花街で芸者をあげてのドンチャン騒ぎに明け暮れていたことなどもあり、まずは反省点の多い初の立候補ということだった。
しかし、捲土重来のチャンスは意外に早くやってきた。翌昭和22年5月3日の新憲法施行を前に、第1次吉田茂内閣がGHQ(連合国軍総司令部)による「(日本政府は)憲法内容を民意に問う必要がある」との意向を汲み、3月31日に衆院の解散に踏み切ったからであった。
ちなみに、このときの戦後2回目の総選挙を機に大選挙区制は廃止され、中選挙区制に移行した。田中の新選挙区は〈新潟3区〉となり、日本進歩党から改組した民主党からの出馬であった。
人任せの前回選挙に懲りた田中は、親しい支持者の前でこう言った。
「人任せに僥倖などはないナ。今度は堂々と言論戦で臨む。苦しいときに逃げ出す奴は、何をやってもダメだ。ワシは逃げん。ビルマのマンダレーで、日本軍は3倍以上の敵に囲まれた。しかし、無謀の声があった中で中央突破作戦を敢行、これを見事に切り抜けた。あらゆる戦いとは、そういうものだ。負ける気はない。全力投球あるのみ。この精神しか成功の秘訣などあるもんか」
(本文中敬称略/Part3に続く)
【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。
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