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お世話になった先輩漫才師~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

前回、中田カウス・ボタンさんが漫才師の中でいち早く舞台でジーパンを穿いて立ち、それを俺らB&Bがマネしたという話を書きましたね。カウス・ボタンさんをはじめ、吉本の先輩たちは、心が広く本当にお世話になりましたよ。

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俺らが東京で勝負しようと決心すると、「お前ら東京行くんやてな。俺らと似たようなネタを作ってやれ」とカウスさんに温かい言葉をかけてもらいました。漫才は歌じゃないから著作権とかないでしょ。戸惑っていると「もし何か言われたら閃いたと言えばいいやん。それがたまたま似ていただけだって」とも助言してくれましたね。

カウス・ボタンさんは、当時大阪で大人気でした。女の子にキャーキャー歓声を浴びる存在でしたよ。もし大阪ではなくて、東京で活躍していて、カウス・ボタンさん以外にも若手の漫才師が何組かいたらブームが起きていたと思います。

その後、漫才ブームが起きた。そうなると、テレビ番組への出演が多くなり、吉本の舞台に立てない日も多くなっていたんです。そんなとき、カウス・ボタンさんは「俺らが出たる」と、後輩の代わりに出てくれたんですよ。普通なら出ません。カウス・ボタンさんは数年前まで月に14日間、1日2回舞台に上がっていたから、漫才を舞台で披露した回数はダントツで日本一かもしれません。もしかしたらギネス記録かもしれない。それくらい舞台に上がっているんです。

座席800人に対して1000人の立ち見!?

吉本に所属していて良かったのは、先輩たちが優しくて、可愛がってもらったことですね。俺は広島から出てきてたから「飯食っているか」とよく声をかけてもらいましてね。姉弟弟子の今いくよ・くるよさんにはむちゃくちゃ飯をご馳走になりましたね。やすきよさんやWヤングさんなどの漫才師の先輩にも可愛がってもらったからこそ、俺らは売れたと思います。芸人は苦労している人が多いから優しいんですよ。

漫才ブームの前なんて花月の朝の公演には団体がバスで駆けつけるんですよ。800人の座席は満杯。休みの日になると、当時は消防法がうるさくなかったから、800の座席の周りに1000人くらいの立ち見が出るんです。一番前の座席と舞台は5〜6メートルくらいあったけど、そこに子供たちが座って見ていましたね。

中には、出演者のズボンを引っ張る子供もいましたよ。「ズボン欲しいんか?」、「こいつん家、貧乏やで」。今だったら叩かれるようなこともお客さんにはウケていましたね。また団体のお客さんが「弁当余ったから、これ食べ」と弁当を舞台のマイクの横に置いていくこともありましたよ。「ちょうどよかった。ものすごい腹減ってたんですよ。今食べていいですか」と返すと場内は爆笑でした。

当時は、持ち時間も長く15分でしたね。ウケないまま15分も舞台に立つのは辛いもんなんです。やすきよさんと俺らは漫才が長いことで有名でしたね。ウケたら、アドリブをどんどん入れて、20分を軽く超えてました。舞台監督さんに「師匠、もうちょっと短くお願いします」と懇願されたやすきよさんは、「アホか。こんだけウケてるんやからお客さんは得やがな。ちょっと長いくらいでガタガタ言うな」と一喝していましたね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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