青木美保(C)週刊実話Web
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演歌歌手/青木美保インタビュー〜今年でデビュー40周年大輪の花を咲かせたい!

青木美保は今年、デビュー40周年を迎えた。15歳で五木ひろしにスカウトされて熊本から単身上京し、17歳で歌手デビュー。通った堀越高校の同級生には堀ちえみ、松本明子、早見優らがいた。順調にキャリアを積んできたが、34歳で突如難病を患い10年間も表舞台から遠ざかっていた時期もある。その青木が4月5日、記念のベストアルバムを発売。曲選びに込めた思いや堀越時代の秘話などを聞いた。


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――青木さんがデビューされた84年は「不作の年」と言われた83年組の翌年でした。いろんな意味で注目されたでしょう。


青木 そうですね。同期は吉川晃司くん、荻野目洋子ちゃん、岡田有希子ちゃん、演歌では神野美伽ちゃんといったところですが、何かと比較され、割と脚光を浴びました。


――演歌の世界はアイドルと違う独特なルールみたいなものがあったのでは?


青木 ルールというか、先輩・後輩の関係はちゃんとしてましたね。ただ、私のデビュー曲は『人生三昧』といって、このコーナーのタイトルと偶然同じなんですけど、演歌歌手らしくない衣装だったんです。スーパーマンみたいな奇抜な格好で、「とにかく目立たせろ」という売り出し戦略だったようです。高校生の私にはそれが嫌でしたね。


――歌番組も、今と違って花盛りでした。


青木 デビュー当時の昭和59年頃は、アイドルも演歌歌手も出演番組がほとんど一緒。垣根のようなものはあまり感じなかったですね。北海道の修学旅行では空港に現地集合で1泊だけ合流してマネジャーに連れて帰られる…というのも経験しています。2泊3日の校外学習というのがあって、東北だったかな? クラスメートには堀ちえみちゃん、松本明子ちゃん、早見優ちゃんらがいて、ちょうど優ちゃんの『夏色のナンシー』がベスト10入りしていたんです。木曜日だったので(TBS系『ザ・ベストテン』の生放送日)旅行先から中継されることになり、優ちゃんだけがリハーサルで夕食時からいなくて。中継をみんなで見たあとに優ちゃんが戻ってきて「おかえり〜」みたいな。普通の高校生では体験できない光景でしたね。

あの日タクシーは導かれていた

――84年組の中で印象に残っている人はいますか?

青木 やっぱり一番ショッだったのは岡田有希子ちゃんですね。ゆっこは堀越高校では1コ下なんです。私が3年のときに2年だった彼女と同じ年にデビューしたので同期になるんですけど、不思議と学校の方が優先されて2年生の同期アイドルたちはみんな「先輩」と呼んでくれてました。ゆっこはとってもしっかりした子で、あんなに忙しいのに毎年きちんと手書きの年賀状を送ってくれるような一面もありました。


――そうなんですね。当時、とても衝撃的な出来事でした。


青木 実は私、不思議な体験をしているんです。ちょうどあの日、タクシーで四谷のビルの前を通っていて、青いビニールシートで覆われたものを見ていたんですよ。FM東京でのお仕事だったのですが、FM東京は当時、西新宿から半蔵門に移転したばかりで、間違って西新宿に行ってしまったんです。半蔵門に向かう途中に四谷があるので、事件の現場に遭遇したわけなんですが、なんだかあの場所にはゆっこに導かれたような気がしていました。


――そういえば、地元熊本では有名な「のど自慢あらし」だったそうですが、15歳で五木ひろしさんにスカウトされたのも偶然がきっかけだったそうですね?


青木 歌手になることは子供の頃からの夢だったのですが、熊本にいてはダメだと思い、中学を卒業して単身上京して、なんの身寄りもない状態で一人暮らしを始めたんです。高校も自分で堀越に決め、「さて、これからどうしよう」というときに、入会していた五木ひろしさんのファンクラブが行う船上ファンの集いに参加しました。カラオケ大会があることも知っていたので、それに参加しようと決めていたんです。 「突然音痴になった」!?

――そこで優勝した…ということですか?


青木 はい。ただ、スカウトが目的のカラオケ大会ではなく、お遊びのようなものなので、五木さんも最初は私の歌を聞いていませんでした。優勝したのでもう一度歌うことになり、そこで五木さんと審査員の方で何かを話し始めたんです。歌いながらもその光景はチラチラと目に飛び込んでくるので、何か言われるのかなと不安でした。そしたら「もしも歌手になりたいなら」ということでスカウトしていただいたんです。


――そのとき歌った曲は?


青木 都はるみさんの『好きになった人』です。


――15歳にしては渋い。恋も愛も知らないのに(笑)。


青木 そうですよね。今思うとすごい歌詞の歌もあるんですけど、『好きになった人』はそれまでの経験で頭からお客さんの心を掴める曲だと知っていたので、迷わずに選びました。


――そして17歳。『人生三昧』でデビューし、その年の新人賞を軒並み受賞。2年後には『夢一輪』が20万枚を超えるヒットに。ところが2001年、34歳で突如難病を患うんですね?


青木 声帯が強く締まる「けいれん性発声障害」という病気でした。まったく声が出なくなるのではなく、単語の最初、例えば「おはよう」の「お」が詰まって出にくくなるんです。当時のディレクターさんからは「美保が突然音痴になった」と言われたくらい(笑)。ポリープがあるわけでもなく声帯は綺麗なので、原因は分からず仕舞い。精神的なものでしょう、という診断しか下されませんでした。


――どうやって完治されたんですか?


青木 精神的なものと言われたことから、まずは「ボーッ」と生きることを心がけました。それまではかなり几帳面で、何でもちゃんとしなくちゃという考えだったのが、「お仕事以外の、どうでもいいことはどうでもいいや」と思うようにしました。そうすると、例えばコロナのときに焦った後輩から相談を受けたりしても泰然としていられましたね。病気で自分だけが歌えない10年に比べたら、どうってことないと思えました。

ようやく訪れた40周年を機に

――24歳の若さでご結婚されましたが、お相手は五木ひろしさんのゴルフ仲間だったそうですね。馴れ初めをうかがっても?

青木 スキャンダルのようなものが嫌だったので、好きになったら結婚すると決めていたんです。そしたら、ドストライクの人が(笑)。熊さんみたいな方で、会った瞬間に「この人と絶対結婚する!」と思いましたね。


――そのご主人も13年前に亡くなり、今はお一人で。周りの男性が放っておかないのでは?


青木 いや〜、何にもないですね。でも、再婚しないとは言い切れませんよ。出会いさえあれば、ねぇ!?


――そして今回、40周年の記念アルバムが4月5日に発売されますね。


青木 2枚組のベストアルバムなのですが、1枚はシングルカット曲を中心に構成していて、2枚目は日の当たらないというか、いわゆるB面の曲を中心に構成しています。タイトルにもなっている『大輪の花』は八代亜紀さんが2000年に作詞してくださったもので、病気を発症したことから思うようにレコーディングができなくてお蔵入りになっていたんです。それを3年前に書き直していただいて収録しています。


――気に入ってらっしゃるフレーズはありますか?


青木 八代さんは長く見守ってくれた私の両親を念頭に「♪じっと我慢は 親ゆずり」と書いてくださったのですが、病気でもコロナでもじっと我慢してきたので、40周年を機に大輪の花が咲くことを期待したいですね。
◆あおきみほ 1966年10月13日生まれ。熊本県出身。40周年記念アルバム『青木美保ベストセレクション〜大輪の花〜第二章〜』はキングレコードより発売。