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“漫才師といえば背広”のイメージ変えた中田カウス・ボタンさん~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

B&Bは漫才ブームで、Tシャツやトレーナー、ジーパンという衣装で出ていたでしょ。それまでの漫才師といえば、お揃いの背広にネクタイ姿が定番だった。俺らが、そういう衣装で舞台に立つようになったのは中田カウス・ボタンさんの影響なんです。

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B&Bとして舞台に立ち始めた頃、若い子らに大人気だったのが中田カウス・ボタンさん。上方漫才大賞を何度も受賞した実力はもちろんのこと、当時珍しかったジーパン姿で舞台に立っていたんですよ。2人ともスタイルがいいからよく似合うんです。俺もよく舞台袖から見ていましたね。

ある日、カウス・ボタンさんの出番が終わると、ボタンさんに夕飯に誘ってもらったんです。ボタンさんのカバンを持ち「どこへ行くんですか?」、「もう外食も飽きたな。家で食おうか」。ボタンさんの自宅に着くと、綺麗で立派なマンションでしたよ。

ボタンさんはあまりお酒を飲まないけど、漫才の話をずっとしてくれてね。時計を見ると夜の9時。「もう遅いのでそろそろ失礼します」と帰ろうとすると、「風呂入って泊まっていけ。明日も花月やろ。泊まって、俺と一緒に行けばいいやんか」のお言葉に甘え、泊まることになったんです。

当時、俺は嫁さんと風呂なしのアパート住まい。南こうせつとかぐや姫の『神田川』の世界のような生活だったんですよ。嫁さんと2人で風呂屋へ行って、男風呂と女風呂の天井に石鹸を投げて渡したり、風呂屋の前で待っていたりね。

ジーパンをマネしていいですか?

ボタンさんの自宅の風呂に入って「これがマンションの風呂なのか」と感動しましたよ。風呂から出た後も11時ごろまで漫才の話をしてくれました。翌朝、起きると奥さんが朝飯を作ってくれ、食べ終わると、40分ほど散歩へ出た。その間もずっと漫才の話でした。

「せっかく広島から出てきてるんだから、絶対に売れろ。売れて一番喜ぶのは、嫁さんと親や。ファンは人気があるときはエエけど、人気がなくなったら寄り付きもせんぞ。そのためには稽古が一番や」

そうアドバイスもしてくれた。身支度を整えて、一緒に花月へ向かう時間になると、マンションの下には黒塗りのハイヤーが迎えに来ていましたね。なんでも「売れているときは事故でも起こしたら大変。車は高いからタクシーの方が安く済む」と言ってましたね。

花月に到着し俺は楽屋口で師匠(島田洋之介)の到着を待っていたんです。師匠が姿を現し「おはようございます」と挨拶すると、「お前、さっきハイヤーから降りてこんかったか? めちゃくちゃ金持ちやないか」。ボタンさんの家に泊まったことを説明すると、師匠はボタンさんのところへお礼の挨拶に行ったものです。

それから合計5回くらいは泊まらせてもらいましたね。その後、カウス・ボタンさんの楽屋で「僕らもカウス・ボタンさんのようにジーパンをマネしていいですか? TシャツにB&Bと書いて」、「おお、かまへんがな。やれやれ。これからはそういう時代や。背広を何着も作るのも高いしな」と了承を得ました。

漫才師でジーパンを穿いて、初めて女の子にキャーキャー言われたのはカウス・ボタンさんなんですよ。

島田洋
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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