(画像)mTaira/Shutterstock
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パンチ佐藤「自分の心は一つです!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第43回

プロ野球では「記録より記憶に残る選手」という表現がよく使われるが、その究極形がパンチ佐藤だ。選手としての実績はとても一流とは言えないが、知名度は当時のパ・リーグでトップクラス。引退後もタレントとして成功している。


1989年11月に開催された平成最初のドラフト会議で、当時、社会人野球の熊谷組に所属していた佐藤和弘は、強打の即戦力外野手としてオリックス・ブレーブスに1位指名された。


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熊谷組の寮で待機していた佐藤は上田利治監督から指名の連絡を受けると、黒電話の受話器を片手に「会社の方と相談して決めることですけれども…自分の心は一つです!」と返答。そのときのいくらか芝居がかった話しぶりや、演歌歌手を思わせるような濃いめの顔にパンチパーマというルックスで、大いに注目を集めることになる。


昭和のプロ野球選手なら当たり前だったパンチパーマも、時は平成。昭和天皇の崩御からそろそろ世の中が落ち着いてきたこの時期、田中角栄は政界引退を表明し、一時代を築いた人気バラエティー番組『オレたちひょうきん族』は放送を終了。一方でバブル景気は最盛期を迎え、若い女性たちはボディコンに身を包んで街に繰り出していた。


社会から昭和の匂いが急速に薄れていく中、明らかに違和感のある風体で登場した佐藤は、入団会見でセールスポイントを問われた際にも「根性です!」と即答。そんな昔気質を感じさせる態度は時代錯誤で滑稽にも見えたが、一味違ったエンターテイナーとしての輝きを放っていた。

チームの顔でありムードメーカーだった

入団前から注目を浴びた佐藤は持ち前の明るいキャラクターで、阪急からオリックスに親会社が変わったばかりの「チームの顔」として、広報のような役割を担うことになる。本人もそれを自覚して話題づくりに努め、ファンサービスも積極的に行った。

メディアからコメントを求められる機会は主力選手よりも多く、キャンプイン直前にはまったくの新人ながら「今の気持ちをマラソンで例えると、ロサ・モタ(88年ソウル五輪で金メダルを獲得したポルトガル出身の女子マラソン選手)が国立競技場のスタートラインで、手首足首を回しているといったところでしょうか」との言葉が大きく報じられている。


この時期のオリックスは「今どきの演出」を指向しており、ウグイス嬢は男性DJ風の呼び込みに変わり、選手それぞれに入場テーマ曲がつけられた。急激な変貌に昔からのファンが戸惑う中で、演歌『北の漁場』で入場する佐藤はどこかほっとさせる存在でもあった。


ムードメーカーだった佐藤は、空席の目立った試合でのお立ち台で「オリックス・ブルーウェーブならびに佐藤和弘のために8万5000人のファンの皆さま、ありがとうございました」と絶叫。また、殊勲打を放った際にインタビュアーが「今津(光男)コーチと一杯やるんですか?」と問いかけると、「下痢するまで飲みたいです!」と答えてファンの爆笑を誘ってみせた。それまで優等生的な発言がほとんどだったお立ち台をエンタメ空間に変えたのは、おそらく佐藤が最初だったのではないか。


もっとも、佐藤自身がお立ち台に立つ場面は少なかった。1年目こそは故障したブーマーに代わって29試合に一塁手でスタメン出場し、打撃成績も3割超えと好結果を残したが、2年目以降は自身の故障や不振もあって成績は低迷。1991年から3年間監督を務めた土井正三とは決定的にそりが合わず、出場機会自体がどんどん減っていった。

イチローの売り出しをサポート

巨人栄光のV9戦士である土井からすると、佐藤の態度が軽薄に感じられ認めてもらえなかったのだ。

1994年に仰木彬監督が就任すると、佐藤は「パンチ」に登録名を変更された。実は最初に鈴木一朗から「イチロー」への変更案があり、同時に人気の高い佐藤も変更することで世間の注目度を上げようとの戦略だったようだ。


だが、レギュラーに定着して大活躍するイチローに対して、佐藤は相変わらずベンチを温め続けた。これについて佐藤は「嫉妬するにはレベルが違い過ぎていた」と振り返っている。結局、同年オフには現役引退となり、パンチとしての出場は1シーズン、23試合のみに終わっている。


わずか5年のプロ生活で、出場149試合、260打数71安打3本塁打26打点、打率2割7分3厘の成績は、プロ全体で見ても「中の下」程度だろう。それでも佐藤は大きなインパクトを残し、プロ野球界にある種の自由な雰囲気をもたらした先駆者である。


佐藤は土井に思うところがあったようで、引退後に出演した『プロ野球ニュース』では「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督」と歴代の監督に感謝を述べつつ、土井については「途中、何かありましたけども」と、その名前すら出していない。


引退当時はまだ30代という若さもあって、パンチ佐藤の芸名でテレビタレントに転身。「遅刻しない、風邪を引かない、休まない、手を抜かない」をモットーに、今も「元気配達人」の肩書で活動を続ける。


なお60歳も間近となった現在は芸名こそパンチ佐藤のままだが、髪型はパンチパーマではなく白髪まじりの短髪に変わった。昭和の匂いはすっかり薄れて、令和の格好いいオヤジになっている。


《文・脇本深八》
パンチ佐藤 PROFILE●1964年12月3日、神奈川県川崎市出身。武相高、亜大、熊谷組を経て89年にドラフト1位でオリックス入団。94年に登録名を本名の「佐藤和弘」から「パンチ」に変更するも、同年限りで戦力外通告を受け現役を引退。