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インタビュー・森脇健児~50代で再ブレーク「『感謝祭』に出始めた頃は小さかった息子がもう独立しました」

森脇健児(C)週刊実話Web

1990年代、バラエティー番組やドラマなどにも出演し、瞬く間に時代の寵児となった森脇健児さん。しかしその後、ラジオ番組しかない雌状の時代を経験。そして今、松竹芸能の兄貴的な存在としても注目を集めている。「復活」の背景に何があったのか?


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――今や長距離ランナーとしても知られる森脇健児さんですが、どんなきっかけで芸人になられたんですか?

森脇健児(以下、森脇)「小学校高学年から深夜ラジオが大好きで、関西でしたから『MBSヤングタウン』(MBSラジオ)や『ハイヤングKYOTO』(KBS京都)などを聞いていました。島田紳助さん、明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さんなど、スピーカーの向こうにいるラジオスターが僕のヒーローでしたね。12歳ごろにはもう、将来は芸人になりたいと思っていました」

――12歳で!? それほど強い影響を受けたんですか。

森脇「深夜ラジオですからアホな話もするんですけど、『俺は将来こういうことをやりたい』といった夢を語ったりされるんです。例えば紳助さんは『バイクでオーストラリアを横断したい』とおっしゃって、その夢を実現されるんですよ。格好いいなと思いました」

――森脇さんは中高生の頃、陸上競技でご活躍されましたが、そちらの道に進もうと思われたことは?

森脇「いえ、芸能界に行くって決めていましたから。陸上の目標はインターハイに出ることで、その実績を持って芸能界でも頑張ろうと思っていました。高校は強豪の洛南高校(京都)へ行きましたが、練習がものすごくきつかった。練習は朝、昼、夕方とあって、基本は休日なし。休みでも『20分ジョグやっていけ』とか。それを3年間ですから」

――それはつらい!

森脇「でも、芸能界に入ってからも、きついと『あのとき、頑張れたから大丈夫』と考えていました」

半年間はトスしか上げるな

――陸上を通じて大切なことを学んだんですね。

森脇「練習がきつかった分、学園祭や弁論大会で漫談をやったりするのが楽しみでした。そこでバランスを取らないと本当にしんどいですから。あと、紳助さんのラジオ番組で公開録音があって、何回も行きましたね。素人参加の企画で何かできると舞台に上げてもらえるので『漫談できます!』って手を挙げてました。そのうち『君、今日も来たんや』って紳助さんに顔を覚えてもらいました。将来につなげるためにもグイグイ行ってましたね」

――第1回松竹芸能タレントオーディションで優勝されたのは高2のときですか。

森脇「はい、それで松竹芸能の所属になりました。当時のマネジャーから『高校卒業後は普通に大学生活を経験した方がいい』と指示があったので、大学に進学して二足の草鞋で芸人をやってましたけど、最初は演芸場に出ても全然ウケないんですよ」

――そうなんですか?

森脇「僕らはいつも舞台袖で師匠たちの漫才や落語を見てました。たまに出してもらえるんですけど、僕らの漫談なんてからきし通じない。大阪の演芸場ってお客さんが本当に厳しいから、逆に怒られますよ」

――プロの壁は高かったと。

森脇「僕は若井はやとの付き人をさせてもらってたんですけど、師匠とご飯食べに行ったりすると、売れてる人から売れてない人まで、いろんな芸人さんが師匠のところに集まってきて、みんな笑わせ合うんですね。僕は水割りを作ったりしながら話を聞くんですけど、そこで兄さん姉さんたちから話を面白くさせる方法を学びました」

――弟子の役得ですね。

森脇「師匠はいわばヘッドコーチですから、いろんなことを教えてもらいました」

――例えば、どんなことを?

森脇「『ざまぁKANKAN!』(読売テレビ)で人気が出たあと、『11PM』の後番組で『EXテレビ』(ともに日本テレビ系)が始まって、僕は東京で三宅裕司さんのパートナーとしてレギュラーに抜擢されました。それで師匠に作戦の相談に行ったんです。師匠は『東京のタレントさんは前に前に出る関西芸人は嫌いやから、半年間は三宅さんにはトスしか上げるな。台本全部覚えてトスだけ上げろ。半年間辛抱したら、三宅さんがトス上げてくる。そんときはバシッと行け。そしたら三宅さんは評価してくれる』と」

御輿に担がれ怖かった

――さすが師匠!

森脇「それを1年やりました。すると『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーになりドラマも決まりました。その頃、三宅さんに〝作戦〟の話をしたんです。三宅さんは『大阪から来たのにやりやすいなって思ってたんだよ。君の師匠、天才だね』って。これは僕が今は後輩に伝えてます。関西芸人は箱根の山を越えて来るとどうしても気張っちゃうんですよ」

――『EXテレビ』を皮切りに、1990年初頭は『いいとも』や『夢がMORIMORI』(フジテレビ系)など森脇さんの時代でしたね。

森脇「あのときは、どうすることもできなかったです。御輿の上に乗って担がれてるわけですから、行くしかないと。怖かったです」

――怖かった?

森脇「はい。僕に実力がないのに仕事はどんどん来る。追い風とはいえ、自分じゃどうしようもない風が吹いてきてました。やっぱり風はやんで、やがて向かい風になっていくんですよ」

――あれだけ活躍されていた森脇さんが第一線から消えたのは、何が原因だったのでしょう?

森脇「飽きられたんでしょうね、結局。面白くないのがバレたというか。『いいとも』が終わった後くらいに一気に幕が閉じて、最後に残ったのは京都のラジオだけ。30歳で関西に戻りました」

――つらいですね。その頃の気持ちを一言で表すと?

森脇「〝惨め〟ですね。自分のせいなので、反省することはいろいろありました。スタッフとも全然話をしてなかったから、番組から求められてることを自分はできてなかったな、とか。それが惨めでしたね」

――全盛期はそんなに忙しかったんですか?

森脇「1本の仕事が終わったら『お疲れ』って次に行く。終わったらまた次に行く。当時、ボクシングをしていたので、それにも行く。スタッフには『よろしく』って、これだけでしたから」

消えたのは「自分のせい」

――そうなんですね。

森脇「関西に戻ってきたときに考え方を〝売れる〟から〝残る〟に変えました。20代は上しか見てなかったけど、30代はしっかり土台を作っていこうと思いました。番組1本1本を作家やプロデューサーと考え抜いて作っていく。番組出演は綿密にトーク内容の対策を立てて、次の仕事につなげられるようにするんです」

――森脇さんに再び注目が集まることになった『オールスター感謝祭』(TBS系)のマラソンについても、そんな背景が?

森脇「赤坂5丁目ミニマラソンに初出場して優勝した2003年秋の『感謝祭』は、ドラマで共演した泉ピン子さんが『収録の5時間半、喋っていられる』と僕を指名してくれたんです」

――そうだったんですね。

森脇「優勝したとき、スタジオの芸能人全員が『お前が勝ってどうする』という空気だし、沿道でも『森脇頑張れ』はゼロ。でも、司会の紳助さんは『京都の皆さん、森脇がやりました』とすごく喜んでくれたんです。そのとき、『僕が芸能界で生きられるのはこれかもしれない』ってひらめいたんです。『10年やったら人生変えられるかも』と。そこから約10年やったボクシングをやめて〝心臓破りの坂〟の練習を始めました」

――意気込みが半端じゃないですね。練習も毎回ぶっ倒れるまでされるとか。

森脇「20年前、『感謝祭』に出始めた頃は小さかった息子がもう独立しました。だから『感謝祭』をはじめ、仕事は全部いつ死んでもいいという思いでやってますよ。僕の経験上、死ぬほど努力しないとチャンスを逃してしまいますね。あと、他人が何を言っても、これと決めたら信念を曲げない根性があるかどうかです」

――さすが、熱い男!

森脇「30代で人気が落ちたときから一生懸命やっていたことが、50代でちょっとずつだけどつながってきた感じがします。過去の経験も全部笑いに変えられますから。だから、後輩に言うのは『絶対に信じた道で努力しろよ。横着したら駄目だ』と。井戸を掘るなら水が出るまで掘り続けること、これが肝心ですよ」

(文/牛島フミロウ 撮影/丸山剛史)

もりわき・けんじ
1967年、大阪府出身。高校在学中に松竹芸能の所属となり、タレント活動を開始。すぐに関西圏で人気を博すと、20代で東京に進出し数々のレギュラー番組を持つ人気タレントになる。しかし番組は長く続かず、30代で東京を撤退し、以降は関西ローカルなどで活躍。そして50代となった昨今、再び注目が集まっている。

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