小林千絵 (C)週刊実話Web
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歌手、タレント/小林千絵インタビュー~今年は還暦とデビュー40周年

昭和の歌謡界。スターが大勢生まれたのは「花の82年組」。翌年は反動(?)で「不作の83年組」と呼ばれてしまった。小林千絵もその中の1人。2018年には負のレッテルを逆手に取り森尾由美、桑田靖子らと「83年組アイドル~不作と言われた私たち『お神セブン』と申します~」というライブイベントを実現した。出産・育児で芸能界を離れていた小林が本格復帰を果たしたのは、まさにこの舞台だった。あれから5年。今年はデビュー40周年と還暦が重なるという。


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――80年代のアイドルは、デビュー時にキャッチフレーズがありましたよね。小林さんは?


小林 「フレッシュルッキング」でした。そんな英語ある?…って感じですよね(笑)。デビュー曲の『いつも片想い』はオリコンランキングで99位止まり。2曲目以降も鳴かず飛ばずで、〝不発の千絵〟なんて呼ばれたこともあるんですよ。


――同期の方々はどうでしたか?


小林 桑田靖子ちゃんがいいほうで50位くらい。松本明子ちゃんでも150位くらいだったかな。


――デビューまでに相当の苦労があった?


小林 苦労というか、どうしても歌手になりたくてオーディションを受けまくっていたのに、2番手ばっかりだったんです。


――有名なところでは『HIDEKI(西城秀樹)の弟・妹募集オーディション』が準優勝でした。


小林 優勝したのが河合奈保子ちゃんで、同じ大阪の地区予選を勝ち上がり、東京での決戦大会だったんです。奈保子ちゃんとはとても仲良くしてて、トイレに行くときも手をつないで行ってたほど。後から聞いた話だと、芸能事務所もレコード会社も私のグランプリで決まってたらしいです。ところが最後に秀樹さんが「奈保子のほうがいいんじゃない?」って。その一言で人生が天と地(笑)。グランプリが発表された瞬間、奈保子ちゃんにスポットが当たって大勢の人に囲まれて…。仲良しだったのに遠い人になっちゃった。大阪に帰ってからはちょっとグレましたもん。


――芸能界デビューしてから秀樹さんの一言の件を知ったわけですね?


小林 そう。聞いたときにはめっちゃ悔しかったけど、先見の明がありましたね、秀樹さんは(笑)。

“遅れてきた新人”アイドルが禁断の!?

――他にはどんなオーディションに?

小林 オーディション荒しと呼ばれていたのですが、『ホリプロタレントスカウトキャラバン』では比企理恵さんに負けました。『スター誕生!』(日本テレビ系)の決戦大会では審査員の都倉俊一さん(現・文化庁長官)に「君は掃除機のような人だ。人を吸い込む魅力がある」と言ってくれて、絶対に通るかなと思ったら、どこの事務所も札を上げてくれませんでした。ようやく優勝できたのが、『第1回ヤマハボーカルオーディション「ザ・デビュー」』。1万人の中から選ばれたけれど、それでもなかなかデビューが決まらなくて。見かねたヤマハの関係者の方から、ポプコンに出てみないかと誘われて『第24回ヤマハ・ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』に出て入賞。ようやくレコード会社が決まったんです。


――とりわけ小林さんは19歳の遅れてきた新人。なのに、バリバリのアイドル路線だった…?


小林 周りの子が15、16歳なのに、お姉さん格の私も一緒にフリフリの衣装を着させられて大変でした。ぶりっ子をしていた反動で、ハタチを過ぎると仕事終わりにマネジャーに内緒でこっそりパチンコ店に通っていたんです。禁止されていた黒い服に着替えたりして。


――当時のパチンコ店はおっさんだらけ。若い女の子は目立ちますよね。


小林 みなさん、勝負に熱中しているから全然気づかないですよ。ただ、新曲のキャンペーン中だったりすると、有線から自分の曲が流れてくるんです。その瞬間、現実に引き戻されて勝てなくなりましたね。


――内緒で通い詰めたパチンコ。マネジャーにはいつバレるんですか?


小林 23歳くらいのときに打ち明けたんです。「実はパチンコが大好き」って。そしたらマネジャーも好きだということが分かって、それからは一緒に打つようになりました。カミングアウトをしたら気が楽になり、仕事にも結びついたんです。パチンコの本を2冊出し、私の台も出ました。今では当たり前ですけど、私がパチンコ台になったアイドルの第1号なんですよ。


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小林 こんなに楽しいものはないし、人生の縮図でもあると思うんです。どの台を選ぶかの選択をし、「ああ、あっちにしておけばよかった」とか。男女の関係で例えるなら、「さんざん貢がせてダマす男」みたいな(笑)。少しでもイメージを良くしたいという思いもあり、パチンコ界のジャンヌ・ダルクの気分でした。


――これまでで一番好きだった台は?


小林 いろいろあって選べないんですけど、一番勝たせてもらったのは『冬のソナタ』。とても相性がよくて、フィーバー時の音を携帯の着信音にしていたくらいです。家の家具からコートから、みんなヨン様に勝って、もらったようなものです(笑)。


――でも、生涯収支はマイナスですか?


小林 これが信じてもらえないんですけど、プラスなんです。もちろん、負けることもあるんですけど、そういうときは「今はパチンコ銀行に預けてるんだ。今日は引き出しに行くわ」という気概で向かいますから。


――先ほど選択の話がありましたが、恋愛面でもそういう選択はありましたか?


小林 ありましたねぇ。ぶりっ子で言うんじゃないですが、こんな顔でイケイケの積極派に見えるのに、めちゃくちゃオクテだったんです。親が厳しすぎたんですね。高校時代に交際を始めたら、母親にこっぴどく叱られたのがトラウマで、恋愛=悪みたいになっていました。なので、アイドル時代もそういうのを避けていたというか、モテたことはありません。慎重に相手を見極めていたつもりが、簡単に二股男に引っかかってしまったり。私にとっては大失恋で、しばらく尾を引きました。男の人はなかなか見抜けないものですね。

カメラ小僧より恥ずかしかったのは…

――パチンコ台は見抜けるのに(笑)。

小林 そういう経験からお酒を飲むようになり、思い出すと簡単に泣けちゃうんです。大阪のある番組の打ち上げで、原田伸郎さんと、先日亡くなった佐藤蛾次郎さんが「千絵を泣かそう」といって高山厳さんの『心凍らせて』をカラオケで歌うんですよ。すると、条件反射のように涙がブワーッと。そのときに横からスッとハンカチが出てきて。「あ、ありがとうございます」となったのが、今の主人。番組のスタッフさんで私より8つも年下。全然恋愛対象ではなかったんですけど…。


――お熱いなれ初めを聞いたところで、アイドル時代の話に戻します。当時はコンサートなどでカメラ小僧がパンチラを必死に狙っていましたが、小林さんもそういう被害に遭いましたか?


小林 ありましたけど、当時は撮られてもいいような下着を穿いていたので、意外に気にしてなかったです。それよりも、ロケ中に腰を強打して担架で病院に運ばれたことがあるんです。「どこを打ったの?」と聞かれて「尾てい骨です」と言ってるのに「恥骨ですね」と言うが早いかズボンをサッと下ろされたことがありました。コントみたいでしょ? あれは恥ずかしかったですね。他には、雪山のロケでトイレがなくて、仕方なくロケバスの裏でしていたら、バスが動いちゃったこととか。でも、あれは気持ちよかったですねぇ。かき氷のレモンみたいになってて、綺麗でした(笑)。


――最後に、今年はデビュー40周年と還暦が重なります。何かイベントは考えていますか?


小林 息子もハタチになり手が離れるので、小規模でもいいから歌を披露する機会を作りたいと思っています。特に同年代の方、子育てを終えた方に「今からでも元気に頑張れるよ、楽しめるよ」という姿をお見せしたいですね。
◆こばやしちえ 1963年11月20日生まれ。大阪府豊中市出身。ラジオ番組『大石吾朗 Premium G』(ミュージックバード・毎週日曜18:00〜)レギュラー出演中。インスタグラム@chiekoba1111