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大場政夫「両親に一戸建てをプレゼントするんだ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第42回

Happy Author
(画像)Happy Author/Shutterstock

負けん気の強さがほとばしる闘いで人気を博し、現役世界王者のまま自動車事故で急逝した〝永遠のチャンプ〟大場政夫。ボクサーとしてはまだ進化の過程にあり、2階級挑戦のプランもあっただけに、その死を惜しむファンは多い。

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1973年1月25日、WBA世界フライ級王者の大場政夫が自動車事故で死亡した。大場の運転する車は首都高速の大曲カーブ付近で中央分離帯を越え、轟音とともに反対車線の大型トラックと正面衝突。運転席は完全にトラックに押しつぶされた状態だった。

大場が乗っていたのはコンバーチブルのシボレー・コルベット・スティングレイ。当時、日本に2台しかないアメリカを象徴する高級スポーツカーである。

事故の23日前、同月2日にはタイの〝稲妻小僧〟チャチャイ・チオノイを12回KOで下し、5度目の防衛に成功したばかりだった。

この試合で大場は初回、いきなりの右ロングフックで吹き飛ばされてダウン。その際に右足首をぐにゃりとひねってしまうが、足を引きずりながらも前に出ることをやめず、12回に逆転。相手をロープに詰めると鬼気迫る形相で連打を浴びせて、見事にKO勝ちを決めていた。

試合後もしばらく足を引きずっていたというから、不慮の事故にこの捻挫の影響があったと見る向きは多い。ただし、コルベットは10日ほど前に納車されたばかりで、まだ運転に不慣れだったことから起きた事故の可能性もある。

戦後の多くの家庭がそうだったように、大場も貧しい幼少期を過ごした。そんな中でもボクシングファンの父は、たびたび息子を連れて試合を見に行ったという。やがて、王者になれば大金を手にできることを知った大場は「両親に一戸建てをプレゼントするんだ」と心に誓う。

15歳でプロボクサーを志望

それからは朝に夕にと荒川の河川敷を走り込み、バケツにコンクリートを詰めて自作したダンベルで筋力トレーニングにも励んだ。家ではサンドバッグに見立てた枕に繰り返しパンチを打ち込み、いつしか枕はボロボロになっていたという。

中学卒業が迫った頃、大場がプロボクサーを志望すると、父は帝拳ジムを推薦した。当時の帝拳ジムはまだ現在のような大手ではなく、世界王者も誕生していなかったが、ボクシングに詳しい父には何かしらの確信があったのかもしれない。

1965年6月に15歳の大場が帝拳ジムの門を叩くと、そのガリガリの体形を見たトレーナーは一度入門を断ろうとしたという。それでも翌年のデビュー戦では初回KO勝ち。身長168センチ、リーチ170センチの体格は、平均身長162センチ程度のフライ級にあってかなり恵まれており、順調に勝ち星を重ねていった。

武器は軽快なコンビネーションと、自分からは絶対に引かない気持ちの強さ。のちに世界王者となる同級のライバル、花形進は1968年9月2日、大場との初対戦で10回判定勝ちしている。

しかし、いいパンチを入れても必ず2発、3発と打ち返してくる闘いぶりに、「試合中に『こいつ、気が強いな』と思ったのは、65戦の中でも大場だけだよ」と語っている。

大場からすると、このときの敗戦が心に引っ掛かっていたのか、世界王者となった後の1972年3月4日には三度目の防衛戦の相手に花形を指名している。

日本人頂上対決は15R僅差判定

日本人同士の世界タイトルマッチは、67年12月14日の沼田義明vs小林弘に続く史上二度目。試合前から大場と花形は敵対心むき出しで舌戦を繰り広げ、調印式で握手を促されても互いに背中を向け合っていた。そのため、やむを得ず両陣営のマネジャー同士が握手をしている。

だが、試合当日1回目の計量で、花形は200グラムの体重超過をしてしまう。直前に風邪をひいて調整に失敗したせいだったが、本気でリベンジを誓っていた大場は、それを伝え聞いて「あいつ、何やってんだ!」と怒りをにじませたという。

サウナで体重を落としてなんとかリングに上がった花形だったが、これに大場は苦しむことになる。試合開始早々の2回、花形の左フックを受けてのスリップはダウン判定になってもおかしくないもので、その後も何度かグラつかされた。

それでも大場は闘志を切らすことなくパンチを放ち続けて、15回を闘い抜き僅差の判定で勝利した。試合後のリング上では互いに認め合い、「ありがとう」と礼を交わしている。

この頃、大場の弱点とされたのがパワー不足で、カミソリ・パンチで鳴らした海老原博幸(元WBA・WBC世界フライ級王者)は「大場君はパンチなさすぎですね」と指摘している。実際、デビュー以来の大半は判定勝ちだった。

しかし、1972年6月20日、四度目の防衛戦では〝最強の挑戦者〟と呼ばれたオーランド・アモレス(パナマ)を相手に、〝オネスト・ジョン〟と絶賛された強烈なストレートをさく裂させてKO勝利を飾ってみせた。オネスト・ジョンとは当時、米軍で運用されていた核弾頭搭載地対地ロケット弾の名称である。

パンチ力が強化されたとなれば、もしも事故がなければさらなる新境地を見せてくれたに違いない。

唯一、救いと言えそうなのは、大場が「ファイトマネーで両親に家をプレゼントする」という当初の目標をすでに達成し、さらに弟の進学費用までも工面していたことだろう。

《文・脇本深八》

大場政夫
PROFILE●1949年10月21日、東京都墨田区出身。1966年11月7日にプロデビュー。70年10月22日、WBA世界フライ級王座獲得。73年1月25日、首都高速での自動車事故で現役世界王者のまま死去。23歳没。生涯戦績35勝(16KO)2敗1分け。

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