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門田博光「常に場外を狙っていたので、衰えてからも柵越えをすることができた」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第41回

David Lee
(画像)David Lee/Shutterstock

身長170センチとプロ野球選手にしては小柄ながら、人より長いバットを握り、ただひたすらホームランを狙う豪快なフルスイングでファンを魅了した門田博光。大けがを克服し、40歳を過ぎても活躍を続けた規格外のプレーヤーであった。

今年1月24日、南海ホークスの主砲として知られる門田博光の訃報が伝えられた。享年74。現役の最晩年には血糖値500を超える重度の糖尿病に悩まされ、1992年に引退した後は脳梗塞で入院するなど、闘病生活を続けていた。

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2016年からは週3回の透析治療を受けていたが、予約の日に来院しなかったことから警察官が自宅を訪ねると、すでに息絶えて倒れていたという。

現役23年間で通算567本塁打は王貞治、野村克也に次ぐNPB歴代3位。シーズンMVP1回、本塁打王3回、打点王2回。パ・リーグタイ記録のシーズン満塁本塁打4本や2試合連続サヨナラ本塁打など、数々の記録を打ち立てた。

門田は現役時代、奈良県内に「3億円豪邸」といわれる自宅を構え、1989年に所属していた南海がダイエーに買収された際には、「家族と離れたくない」との理由で福岡への単身赴任を拒否。阪急から親会社が変わったばかりのオリックス・ブレーブスへ移籍した。

そんな家族思いの門田だったが、引退後には事業の失敗から自宅を手放して離婚。2007年ごろに兵庫県の別荘地にある一軒家に一人で移り住んでいた。

王と野村の説得にも反論

寂しい晩年のようにも思われるが、門田自身は現役時代の手記で「いつか『アルプスの少女ハイジ』の中に出てくるおじいさんのような生活をするのが夢なんです」と記しており、孤独な独り暮らしも実は本人が望んでいたものだったのかもしれない。

ご近所の方が「中学生の息子の野球を見てやってほしい」と軽い気持ちで頼んだところ、翌日にはきっちりユニホームを着用して現れ、手取り足取り指導したという。門田の生真面目で優しい人柄を示す逸話だ。

だが、その半面で自分のプレーに関しては頑固一徹かつ自己中心的で、南海時代の野村監督が「南海の三悪人」(ほかの2人は江本孟紀と江夏豊)と評したほどだった。

プロ入り直後から俊足、強肩、巧打の右翼手として活躍。身長170センチの小兵で、首脳陣からは「技巧派の2番打者」を求められたが、2年目に31本塁打を放ち120打点で打点王のタイトルを獲得すると、長打狙いのフルスイングを志向するようになった。

一発狙いの強振が目立ち始めた門田に対し、野村は王の協力を仰ぎ、「ヒットを打ちにいくのが基本で、その延長がホームラン」と大打者が2人がかりで説得を試みたが、門田は「監督も王さんもホームラン狙いで大振りをしている」と反論したという。

20代の若造にもかかわらず自説を曲げない強情ぶりに、野村や王はあきれ返ったが、門田としては2人の打撃を研究した結果のスタイルであったため、逆にそう言われることが信じられない気持ちだったようだ。

しかし、1979年の春季キャンプで門田は右足アキレス腱を断裂。当時としては選手生命も危ぶまれる大けがだったが、懸命なリハビリに取り組み、同年のシーズン終盤に代打で復帰を果たした。以降は主に指名打者として起用され、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」と、さらに長打へのこだわりを強くしていった。

唯一無二の記録40歳で44本塁打

そして、言葉通りに門田は、1980年以降にシーズン40本塁打以上を4回も達成。40歳になった88年には44本塁打、125打点で二冠王となり「不惑の大砲」「中年の星」として称えられた。まさに「一念岩をも通す」を体現したわけだ。

なお40代での44本塁打は、30年以上たった今も更新する者が現れない唯一無二のNPB記録で、30本塁打以上も王(80年に30本)とタフィー・ローズ(2008年に40本)、山﨑武司(09年に39本)の3人しかない。

「どこの球場でも場外を打つことがホームラン」を信条とし、ほとんどのホームランは門田からすると打ち損ないだった。「常に場外を狙っていたので、衰えてからも柵越えすることができた」とも話している。

今も昔も長距離打者は900グラム前後のバットを使うことが常識とされているが、門田は「ボールを飛ばすには速いヘッドスピードで、バットは軽いより重いほうがいい」と信じ、重さ1キロのバットを全力で振り続けることで本塁打を量産しようとした。

だが、これは門田の体にも大きな負担をかけることになり、オリックス時代にホームランを打った後、ブーマーとハイタッチして右肩を脱臼した話は有名だが、実はプロ入り間もない頃からすでに脱臼癖がついていたという。

門田は引退から20年以上が経過した頃、とある会合で野村とバッタリ再会した。かつて門田を「悪人」呼ばわりした野村だが、「とことん打撃を追究する門田ほどの野球馬鹿は、もう二度と出てこんやろうなあ」と笑っていたという。

(文中敬称略)

《文・脇本深八》

門田博光
PROFILE●1948年2月26日生まれ〜2023年1月24日没。山口県出身。天理高からクラレ岡山を経て1969年にドラフト2位で南海に入団。89年にオリックス、91年にダイエーでプレーし、92年限りで現役を引退。2006年に野球殿堂入りを果たした。

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