(画像)mTaira/Shutterstock
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星野仙一「勝ちたいんや!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第39回

勝利のためなら鉄拳制裁も辞さず。〝闘将〟として知られた星野仙一のやり方は、今の時代なら理不尽に思われ、間違いなく批判にさらされていただろう。しかし、強烈な勝負根性が、大きな結果につながった面も確かにあったのだ。


2017年に競技者表彰のエキスパート部門で野球殿堂入りを果たした星野仙一は、これを受けて「プレーヤーとしては大した選手じゃなかった」と謙虚に語った。実際、星野に関しては、その現役時代よりも中日、阪神、楽天で監督を務め、チームを優勝に導いたという印象を持つ人が多いだろう。


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投手としては、実働14年で146勝121敗34セーブ。獲得したシーズンタイトルは1974年の「最多セーブ」だけで(75年の最高勝率は当時、連盟表彰なし)、確かに歴史的名投手というほどの成績ではない。


しかしながら、当時のプロ野球ではローテーション制がまだ確立されておらず、星野が先発に完全固定されたシーズンはわずか5年ほどだった。他の年は中日投手陣の絶対的な存在として、チーム事情に合わせて中継ぎや救援もこなしていたため、そこで残した数字は現代の常識では推し量ることができない。


中でも中日が巨人のV10を阻んでリーグ優勝を達成した1974年は、先発17試合で7完投。救援でも32試合に登板する大車輪の働きで、15勝9敗10セーブの成績を残し、まさに優勝の立役者となった。各チームのエース級投手が20勝以上を挙げていた時代に、星野が15勝で沢村賞を獲得したことからも、その活躍ぶりがうかがい知れる。

打倒巨人の執念燃やした“巨人キラー”!?

星野は1968年、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した。ドラフト前には巨人から「田淵幸一を1位指名できなかった場合には1位で指名する」との申し入れがあったという。


しかし、当時の巨人は先発メンバーが充実しており、川上哲治監督の「田淵以外なら、将来性のある選手が欲しい」との意向から、ドラフト直前に1位指名を高校生投手の島野修に変更。巨人入りを確信していた星野は、「ホシとシマの間違いじゃないか?」と不満を漏らしたという。


このときの恨みから、打倒巨人に執念を燃やしたともいわれる星野は、巨人戦において通算35勝31敗を記録して〝巨人キラー〟と称された。巨人から30勝以上を挙げて勝ち越している投手は、ほかに平松政次、川口和久、石川雅規がいて、星野はその中でも最高勝率を誇る(対巨人最多勝は金田正一で65勝72敗)。


ただし、実際にはドラフト時の恨みだけで、巨人戦に気合を入れていたわけではなかったようだ。この頃はテレビ中継のほとんどが巨人戦で、そこで活躍すれば故郷の岡山を含め、日本全国にアピールできるという気持ちが強くあったことを星野自身が語っている。


星野の現役時代については、プロ野球の珍プレーとして何度も取り上げられてきた「宇野勝のヘディング事件」を思い起こす人も多いだろう。

〝宿敵〟を倒して悲願の日本一へ

1981年8月26日、後楽園球場での巨人戦。先発した星野は6回まで無失点に抑え、中日が2-0でリードした7回裏、巨人の攻撃。2死2塁で代打、山本功児の打球は内野後方へのポップフライとなった。


後退しながら捕球体勢に入った遊撃手の宇野。しかし、打球は差し出したグローブにかすることもなく、宇野の額を直撃して大きく跳ね上がる。スパイクの歯が人工芝に引っ掛かり、一瞬、足元を気にしてボールから目を離してしまった宇野の凡ミスだった。


3アウトチェンジを確信してマウンドを降り、ベンチに向かっていた星野が観客の叫ぶ声で振り返ると、ボールは左翼ファウルゾーンを転々とし、宇野は頭を押さえてうずくまっている。呆気に取られた星野は慌てて本塁のカバーに走ったが、その目前で二塁走者の柳田真宏がホームイン。星野は鬼の形相でグラブをグラウンドに叩きつけた。


なんとかこの試合を2-1の完投勝利で終えた星野は、「怒ったのは宇野に対してじゃない。完封勝利が消えたのが悔しかったからだ」と語っている。ただし、事の張本人となった宇野は、試合後の星野からの食事の誘いを「兄が上京しているから」と断ると、その後も星野におびえる日々を過ごすことになったという。


実のところ、星野にとってこの一戦には特別な意味があった。巨人は前シーズンから158試合にわたって、連続試合得点記録を続けており、星野は「俺が止めたる!」とばかりに並々ならぬ決意で登板。後輩の小松辰雄に対しては、どちらが先に完封勝利を果たすか10万円を賭けていた。


結局、巨人の連続試合得点は同シーズンの9月20日、174試合まで続いた。止めたのは奇しくも賭けの相手である小松で、試合の翌日に星野は「おめでとう」と祝儀の入った封筒を小松に差し出したという。


こうした勝利への強い欲求は監督になってからも衰えることがなく、阪神2年目となる2003年には、キャンプ前夜に「勝ちたいんや!」と熱い胸中を選手たちに伝え、結果、阪神は18年ぶりにリーグ優勝を果たしている。


楽天監督時代は鉄拳制裁こそ見られなくなったが、強烈なリーダーシップを発揮して2013年に球団初のリーグ優勝を遂げると、〝宿敵〟巨人を倒して星野自身も初となる日本一に輝いた。