島田洋七 (C)週刊実話Web
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「アースマラソン」の間寛平と涙の再会~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

前回、まだお互いに吉本に入りたての頃、間寛平と仲良くなり、3日に一度は寛平が俺んちに泊まっていたことを書きましたね。それから1年くらいして、寛平は吉本新喜劇に出演していたけど、しゃべくりの練習になるからと、2人でよく漫才の稽古をしていたんです。


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うちの師匠の島田洋之介・今喜多代の出番と寛平の出る新喜劇がよく重なった。新喜劇が終わり、セットの片付けが終わると、スタンドマイクを舞台の中央に置いて練習させてもらっていた。俺がネタを書いて、ネタ合わせしていたんですよ。他の芸人もその様子を見てたから「キミら、漫才すんのか?」なんて声を掛けられ、だんだん会社内で広まっていったんです。


吉本本社の人の耳にも入りましてね。ある日、部長さんが来たんです。


「ごめんな。徳永君(俺の本名)。寛平は貴重品やねん。このキャラクターはなかなかいないわ。いつか新喜劇のスターになるから、漫才はさせられへんねん」


確かに、それからすぐ寛平が登場するだけで、ものすごくウケてたんです。舞台に出て「台詞はなんだったっけ?」なんてあの顔で言うんですよ。でも、お客さんはギャグだと思うでしょ。その後、寛平は24歳で座長になりましたからね。


また『ひらけ!チューリップ』で歌手デビューすると、曲も大ヒット。漫才ブームが終わってから、寛平とコンビを組んだことがあるんですけど、やはり仲の良い友達だから「ああせえ、こうせえ」とは言いづらいんですよ。しかも、漫才ブームの後で世間はもう漫才でお腹いっぱいのときでしたから、漫才番組も少なかったんです。

日本のラジオから聞き覚えのある声…

漫才ブームの3〜4年間は、各局とも漫才番組だらけ。セットにお金がかからないし、低予算で視聴率を稼げたからでしょうね。再びお笑いブームが起こるまで、17〜18年かかりましたよ。

2008年12月に寛平は「アースマラソン」というマラソンとヨットで地球一周するプロジェクトを始めたでしょ。そのときは心配で心配で涙が出ました。だって、寛平はヨットを動かしたことなんてなかったんですよ。いくら同行したマネジャーの比企(啓之)君がヨットの経験があるといっても、世界情勢を考えたら危険な地域も多い。どこかで死んだらと思ったら、心配しかなかったですよ。


2年1カ月かけて、無事にゴールしましたけど、1カ月に1〜2回は海上でも使える携帯電話で話しましたね。料金が高いから「元気か?」、「頑張れ」とか短い会話ばかりでしたけど。


中国の青島から福岡の博多港に戻ってくるときは、俺も駆けつけました。テレビカメラや報道陣がたくさん取材に来ていましたけど、お互い涙、涙でしたね。命があるだけでも、すごいなと思ったんです。


後日、話を聞くと、福岡に近づいたとき、日本のラジオが入ったらしい。「この声、聴いたことあるな」、「これ洋七さんの声ですよ」と比企君。今も続いているけど、当時から九州朝日放送で『島田洋七の朝から言わせろ!』という5分間のラジオ番組を平日朝、毎日放送しているんです。


偶然にも、久々に日本で初めて聴いた声が俺だなんて、何かの縁でしょうね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。