(画像)Ivan Smuk/Shutterstock
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中山竹通「瀬古、這ってでも出てこい!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第38回

80年代後半には瀬古利彦や宗茂・猛の兄弟、90年代前半には谷口浩美や森下広一らとしのぎを削り、日本の男子マラソン界をリードした中山竹通。その際立った個性や言動で異端児と目され、時に周囲と衝突することもあった。


1987年12月6日に開催された福岡国際マラソンは、翌年に控えたソウル五輪の代表選考レースとなっていたが、この大会直前に中山竹通が放ったとされる言葉が、メディアでセンセーショナルに報じられた。


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「瀬古、這ってでも出てこい!」


瀬古利彦が故障のため同大会を欠場することについて問われた中山は、実際には「僕なら這ってでも出ますけどね」と答えていた。報道はかなり脚色されたものではあったが、当時の中山に瀬古を非難する気持ちがまったくなかったと言えば嘘になる。


このとき、日本陸上競技連盟(陸連)は強化指定選手に対して、必ず福岡国際に出場するよう要請しており、同大会はソウル五輪代表を決める「一発選考の場」になるはずだった。


ところが、故障した瀬古が欠場を発表すると、陸連は瀬古のそれまでの実績を勘案し、福岡国際の3カ月後に行われるびわ湖毎日マラソンで好成績を収めれば、五輪代表に選出するとの意向を示した。


一本気な中山は、こうしたあやふやな判断が許せなかった。「一発選考と決めたのならば、陸連はその通りに遂行すべきで、どうしても五輪に出たいのならば、瀬古はケガを押してでも出場すればいい。出ないというならそれも運命と受け入れて、五輪出場を諦めるべきだ」というのが中山の本音だった。

海外のレースにも出場

陸連がこの件に限らず、何かにつけて「瀬古優遇」の姿勢を続けていたことへの不満もあっただろう。1984年のロサンゼルス五輪で大敗を喫した瀬古は、その後に陸連が「アマチュア選手の賞金試合への出場」を解禁すると、そうした賞金レースばかりを走っていた。

ただ、これは瀬古だけの意思ではなく、陸連の後押しもあってのことだったが、その裏で中山を含めた他の選手たちは、アマチュア大会への出場を続けていたのだから、不満が鬱積したとしても仕方がない。


また、有力選手のほとんどが福岡国際に出場しているのだから、びわ湖大会は手薄な陣容になる。そこで好成績を残したからといって代表に選ばれるのは、瀬古にとって都合が良すぎる。そんな陸連の決定に対しては、当時のスポーツファンたちからも広く疑問の声が上がっていた。


さらに言うと中山には、ここで瀬古と雌雄を決したいという強い気持ちもあっただろう。常日頃から「現役でいる限り、トップでいなければいけない」と話し、そのため終盤のスピード勝負で瀬古に負けないようにと、1987年7月には海外で1万メートルのレースにも出場。それまで瀬古の持っていた日本記録を更新していた。


中山のマラソン初挑戦は23歳。高校卒業後は練習環境に恵まれず、すでにスター選手だった瀬古の走りを参考にしながら、自己流で練習を重ねた。1983年に始動したばかりのダイエー陸上部に加わり、ようやく本格的なマラソンに取り組むようになった遅咲きの選手であった。

妥協を許さない孤高のランナー

そこから飛躍的な成長を遂げた中山は、1985年4月に開催されたワールドカップマラソン広島大会で、当時の日本新記録である2時間8分15秒を記録した。そうして迎えた福岡国際だけに、目標としてきた瀬古との直接対決に懸ける意気込みは、相当なものであったに違いない。

レースが始まると中山は、雪混じりの雨天という悪条件の中、35キロ地点まで当時の世界記録を49秒も上回る走りで後続をぶっちぎる。最後はペースダウンしたものの、2位以下に2分以上の大差をつける2時間8分18秒のタイムで圧勝した。


この結果、中山は文句なしの日本代表となり、びわ湖大会で優勝した瀬古も、平凡なタイムながら代表入りを果たした。しかし、中山はソウル五輪で金メダル候補に挙げられながらも、4位入賞に終わった。


のちに中山は「(ソウル五輪は)福岡国際のときから25%ぐらい力が落ちていて、レース前から勝てると思っていなかった」と振り返っている。直前の合宿で疲れが蓄積し、それが取れなかったことが敗因だった。


同じ日本代表の瀬古は9着、新宅雅也は17着。日本人選手では最先着となった中山だが、レース後は特にそのことには触れず、「金メダルでなければ2位もビリも一緒」と話している。


1992年のバルセロナ五輪でも日本代表に選ばれた中山だが、競技場に入るところまで3着争いを繰り広げながら、最後に抜かれてまたもや4着。ただ、五輪の男子マラソンで、日本人選手が2大会連続の入賞を果たしたのは、ほかに君原健二しかいない。


中山は後年に「メダルなんか取ろうなんて考えてませんよ。だいたい日本のためにとか考えることがおかしいのであって、自分のレースですから」と、五輪を特別視していなかったことを明かしている。


中山のような考え方や歯に衣着せぬ発言、そしてレースに臨む際のギラついた目つきは、今の時代にはなかなか見ることができない。とりわけ個性的なランナーであった。


《文・脇本深八》
中山竹通 PROFILE●1959年12月20日生まれ。長野県出身。ハングリー精神と不断の努力で頭角を現し、1983年にダイエー入社。84年の福岡国際マラソンで初優勝して注目される。88年のソウル、92年のバルセロナ五輪のマラソンで2大会連続の4位入賞。