芸能

ビートきよしインタビュー〜芸人になるまで、そしてツービート時代を語る〜

ビートきよし
ビートきよし(C)週刊実話Web

世間が漫才ブームに沸いていた1980年のあの頃、現在は「世界の北野」となったビートたけしとのコンピで一世を風靡したビートきよしさん。まさしく芸人として天下を取ったわけだが、今回はその知られざる舞台裏をたっぷり語っていただいた。

【関連】ものまね界レジェンドコロッケにインタビュー〜後ろからご本人登場がターニングポイント〜 ほか

※※※※※※※※※※※※

――まずは、ビートきよし師匠が芸人になるまでの経緯を教えていただきたいです。

ビートきよし(以下、きよし)「俺は山形の田舎出身でね。はじめは、週刊誌に載っていた養成所の〝タレント募集〟の広告を見て、東京に出てきたんだ。おふくろに2万円だけもらって、夜行列車に飛び乗ってね」

――身ひとつで上京されたんですね。

きよし「それで養成所に入って、すぐに映画の仕事がきたんだよ。これはスターになれる日も近いぞ、と大喜びで行ったら、そこはピンク映画の撮影現場。俺は男優をやらされたわけ!」

――師匠のデビュー作はピンク映画だったんですか。

きよし「そうだよ。まだ手を繋いだこともない田舎の18歳が、いきなり女とベッドで裸。あれは震えたね! でも、ちょうどその役がウブな男の設定で奇しくもピッタリハマった。それで男優の仕事が来るようになっちゃったんだわ(笑)」

――すごい…。そこからどうやってお笑いの世界へ?

きよし「養成所の先輩が浅草ロック座を紹介してくれたんだよ。俺は、もう、裸はこりごりだったんだけど(笑)、渥美清さんや東八郎さんがここで修業していたと聞いて、魅かれちゃってね。踊り子さんのショーの合間に芝居やコントをすることになった。で、そこで座長をしていたのが、深見千三郎師匠」

――映画『浅草キッド』にも登場していた、伝説の浅草芸人の方ですね。

きよし「厳しい人でね、舞台の上でも関係なく『バカヤロー』って怒鳴られたよ。その後、フランス座に師匠と移ったんだけど、そこに来たのが、後の相方のたけし。最初はただのエレベーターボーイだったんだ」

『俺も漫才やろう!』

――たけしさんと初めて会ったときの印象は?

きよし「エレベーター係って年寄りがやるものだから、若いのに変わってるなって。ちょっと神経質そうな感じだったし。相方は師匠に『舞台に出してほしい』って頼んでいて、3人でコントをやるようになったんだ」

――たけしさんとのコントはどうでしたか?

きよし「その頃からアドリブが多くてやりたい放題! 楽屋でも、怖いもの知らずだから、深見師匠を直接ネタにしてイジッたりして。でも、そういう部分を師匠も気に入っていたんだよね」

――当時から物怖じしなかったんですね。

きよし「そのうちに師匠が『2人でやれ』って言って、一緒にコントをやる機会が増えていったんだよ」

――しかし、きよし師匠はフランス座を離れてしまう。

きよし「当時テレビでも大人気のスター、Wけんじ師匠が、松竹演芸場の寄席で漫才をしていたのを見てね。それで『俺も漫才をやろう!』って決めたんだ」

――師匠が初めに漫才をやろうと閃いたんですね。

きよし「最初はレオナルド熊さんの弟子とコンビを結成した。名古屋の大須演芸場に出たら、ウケが良くて、1年間寄席に出られることになったんだよ。でも、喜んだのも束の間。その相方が熊さんに不義理をしていて『漫才はやらせない』と激怒された。ぶっちゃけ、当時の熊さんはメチャクチャで、何を言っても『指を詰めろ!』ってわめく始末(苦笑)。そこでコンビは解散だよ」

――それは壮絶なお話で…。

きよし「でも大須演芸場の1年契約は生きてるから、チャンスを逃したくない。そこで、今の相方、たけしを呼びに行ったわけだ!」

――ついに、後のツービートの誕生ですね。

きよし「『俺はいいよ…』って言う相方をなんとか口説き落としてね。最初は地方のキャバレーとかでドサ回りしてた。そこに相方は酒飲んでやって来るもんだから、客やホステスさんに文句言ったり、『聞けよ、バカヤロー』って絡みだしたりする。俺はいつも支配人に頭下げて平謝りよ(笑)」

誰よりも才能のある相方

――大変でしたね…。

きよし「俺が一生懸命仕事を取ってきても、家にいない。取りあえず現場の住所と電車賃千円を置いておくんだけど、時間に来なくてすっぽかす。何してんだって探しに行くと、俺の千円で、浅草でチューハイ飲んでベロベロになってんだ!」

――あははは!

きよし「新小岩のキャバレーで営業したときも酔っぱらって漫才どころじゃないから、怒ってる支配人に『こいつは相方じゃありません』って言って、代わりに兄弟弟子と漫才やったりね」

――嫌気が差したり、解散は考えなかったんですか?

きよし「やっぱりね、それでも舞台に立つと面白いんだよ。アドリブのボケで俺が笑っちゃうほど。だから、なんとかコイツを離さずに、ステージに上げ続けることが俺の使命だと思ったんだ」

――おお、なるほど。

きよし「相方は誰よりも才能があると思っていたし、俺もそれを認めていた。だから、ハチャメチャやっても怒らなかったしね。それだけ相方に賭けてたし、俺が謝ったり、支えることで、最終的にコンビが売れたらいいんだからって」

――素晴らしいお考えだと思います。そして、実際に「これは売れるぞ」と思った瞬間はありましたか?

きよし「寄席に出ていたときにテレビ局からいきなり声がかかったんだよね。それが『ライバル大爆笑!』って番組で、テレビ初出演。本番で緊張していた割に会場はウケて、それからテレビに呼ばれ始めたんだ」

――そこから徐々に人気が出て、『THE MANZAI』出演、そして漫才ブームに繋がっていくんですね。

きよし「その頃にはツービートの漫才スタイルが定まっていたね。いつも相方は何を言い出すか分からないから、こっちも真剣。早口でまくしたてるし、下手に長くツッコむと言葉が重なってしまう。だから『よしなさい!』が生まれた(笑)」

――そんな経緯が。『THE MANZAI』出演者同士でライバル意識などはありましたか?

きよし「それはあったよ〜。毎回、真剣勝負。闘いだったんだから。俺たちが誰よりも笑いを取るんだってギラギラして、自然と競争になっていたね。舞台裏ではニコニコしていたけどさ!」

目まぐるしいほど急がしかった

――(笑)。ちなみに、ピークのときは相当儲かっていたんじゃないですか?

きよし「B&Bとかに比べたら全然だよ。あいつら個人事務所だったから、月に7000万くらい入ってたんじゃないかな。俺たちは給料制だったからさ。まあ、ウン百万円くらい?」

――当時では相当ですね。

きよし「それが現金支給なもんだから、もらってそのままポンッと六本木で使ってスッカラカン。後々、『よそから見てても総額6億円以上は使ってたよ』なんて言われてさ!」

――すごい…! 女性にもかなりモテてたのでは?

きよし「それはハンパじゃないよね(笑)。今言ったら叩かれるけど、当時は女は芸の肥やし。モテてなんぼ。ただ、俺はファンの子には『親が心配するから早く帰れ!』って怒ってたから、全員相方の方に行ったよ!」

――(笑)。

きよし「でも正直、あの頃は仕事が忙しすぎて、人気が出てきたなんて分からなかった。それぐらい目まぐるしかったんだよね」

――その後、漫才ブームも落ち着いて、ツービートも個々の活動が増えましたね。

きよし「俺は、それから役者の仕事が楽しくなって、相方は今や〝世界の北野〟になったわけだ。本来ならば、解散して別々になってもおかしくないと思うよ。だけど、そんな話は出ないし、俺にとっては相方の才能が誇らしくてさ」

――きよし師匠がいたからこそ、今のたけしさんがいらっしゃると思います。

きよし「だったら嬉しいことだよね。喧嘩別れするコンビもいるけど、俺たちは干渉しすぎずに丁度いい距離感でやってきたから長く続いた。それにお互いの個性を尊重して、時には相手に手綱を握らせることで上手くいったんだと思ってる」

――それは今の芸人さんにも参考になりそうです。最近、たけしさんとご連絡を取ったことは?

きよし「たまにね。コロナ前はゴルフ行ったりしてたけど、今は相方も家にこもってるみたいだからさ(笑)」

――そうなんですね。またツービートの漫才を見る機会はあるのでしょうか?

きよし「相方は、負ける勝負はしないからなあ。今の漫才師に負けるようなら、やらないと思う(笑)」

――今後、お二人が揃う日を楽しみにしています。

きよし「『自分の相方はきよしさんしかいない』って言ってくれてるらしいしね。俺も相方との掛け合いは楽しいんだ。また2人で漫才ができたらいいよね」

文/kitsune 企画・撮影/丸山剛史

ビートきよし
1949年、山形県出身。高校卒業後に上京し、ストリップ劇場の幕間芸人となり、深見千三郎に師事する。その後、後輩のビートたけしと1972年に「ツービート」を結成。徐々に人気に火が付き、ついにはMANZAIブームの追い風もあって爆発的な人気を得た。「よしなさい!」などのギャグでも知られる。

あわせて読みたい