芸能

島田紳助と一度きりのコミックバンド~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

昨年の『M-1グランプリ』はウエストランドの優勝で幕を閉じましたね。今回のM-1は過去最多の7000組以上も出場したというじゃないですか。

M-1は数千円の参加費を支払えば、高校生でもコンビを組んで出場でき、優勝する可能性もある。それに芸人を目指す子らが多いのは、体格も学歴も何も関係ないからでしょうね。俺が若いときに7000組も漫才師になりたがったら、俺はなっていなかったかも。でもね、若手芸人はあの手この手と売れるために、いろんなことを試すんです。俺らもそうでしたよ。


【関連】アメリカで二度の“ドッキリ”~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』 ほか

まだ弟弟子の島田紳助が、紳助・竜介を組む前、俺と紳助で京都の厚生年金会館を借りて、バンドと一緒にライブを開催したことがあるんです。会場費は俺が全部立て替えましたよ。

当時は、『ザ・ドリフターズ』が流行り、『あのねのね』も売れていたから、コミックバンドのようなネタがウケるんじゃないかと思ってね。紳助の地元・京都の友達がエレキギターやエレクトーンを弾けたり、サックスを吹ける子らがいたから『不愉快な仲間たち』というグループを組んだんです。ゲストに間寛平を呼んで、入場料は500円でした。

チラシを印刷するお金なんて当然ないから紳助の実家で、白い紙にマジックで日時と場所、値段を300〜400枚ほど手書きして、パチンコ屋さんに貼ってもらったり、当時はまだ存在した吉本の京都花月近くのお店に飛び入りで入って、チケットを手売りしたんです。京都花月の周りは賑やかな場所だったから、お店がたくさんあった。

「僕ら若手なんです。ライブやります。間寛平もゲストで来ます。来てください」

漫才師は漫才だけだった

チラシを配ると、500円という値段もあってか、10枚、20枚とチケットをまとめて買ってくれる人もいた。俺はたまにテレビに出ていたので、少しは顔を知られていたけど、紳助はまだまだ知られていない頃ですよ。

当日、1000人ほど収容の会場にお客さんが8割くらい入った。バンドが演奏し突然、音が止まると、俺と紳助がコントを始めたりしましたね。コミックバンドとはちょっと違う感じでした。終わった後、紳助の友達にコミックバンドを組もうと誘ったんですけど、「まだ大学生ですから親に怒られる」と断られてしまった。一度きりでしたね。

M-1や他の賞レースで優勝してもスタジオでのトークが面白くないと、だんだん呼ばれなくなるんです。紳助とは、お笑いに対する頭と記憶力がないといけないと話していましたよ。テレビ番組で話を振られても、すぐに面白いネタを思い出さないと対応できないでしょ。面白い話があれば、2〜3回口に出して、いつでもしゃべれるよう頭に入れておかないとダメなんです。

昔は、漫才師は漫才だけで生きていけたんです。でも、俺らがそれを変えてしまった。アナウンサーが担当していた司会をお笑い芸人がするようになったのは漫才ブームの頃からなんです。M-1だけでなく、芸人として夢が叶わないからといって悲観することはないと思うんですよ。

売れないのが当たり前の世界です。それに普通の生活ができることが一番のぜいたくなんです。俺はそう思いますね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

あわせて読みたい