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中畑清「絶好調!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第35回

David Lee
(画像)David Lee/Shutterstock

V9以降は安定した成績を残せず、江川卓の入団トラブルや長嶋第1次政権の解任騒動などで、80年代の巨人は何かと批判されることも多かった。そんな時期のチームを人気面で支えたのが、根っから明るい性格の中畑清である。

中畑清といえば絶好調、絶好調といえば中畑清。栄光の系譜につながる巨人の中心選手でありながら、やけに親しみやすいキャラクター。中畑の背番号「24」と当時としては過剰なパフォーマンスから、80年代のプロ野球を懐かしく思い出す人も多いだろう。

しかし、駒澤大学時代は打線の主軸として活躍した中畑も、プロ入り当初は決して「絶好調男」ではなかった。V9戦士の王貞治や柴田勲、堀内恒夫、高田繁らがまだ現役に名を連ねていて、しかも監督は憧れだった「ミスター・ジャイアンツ」の長嶋茂雄。テレビで見ていたスター軍団を目の当たりにして、新人の中畑は話しかけることすらできなかったという。

選手層の厚さに阻まれ、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった中畑だが、ようやく1978年のシーズン終了後に転機が訪れる。日米野球で招聘したシンシナティ・レッズと巨人が対戦した際、途中出場して見事にホームランを放ったことで、翌79年のシーズンから一軍に定着することになったのだ。

そして、中畑の代名詞となる「絶好調!」は、この時期に誕生する。長嶋監督から「調子はどうだ?」と声をかけられた中畑が、正直に「まあまあです」と返事をすると、そんなやり取りを見ていたコーチの土井正三に「おまえはバカか。『まあまあ』なんて言っていたら、使ってもらえんぞ。いつも元気よく『絶好調です』と答えろ!」と叱咤された。これ以降、中畑は長嶋監督に調子を聞かれずとも、自分から「絶好調!」と言い続けるようになったという。

チームリーダーでありムードメーカー的存在

そんな態度が気に入られたのか、正三塁手だった高田が故障して戦線離脱すると、代わりに中畑が抜擢された。千載一遇のチャンスに燃えた中畑は「絶好調」が自己暗示になり、スタメン出場からしばらくは打率4割近い好成績をキープ。高田の復帰後もレギュラーに定着することとなった。

中畑の絶好調エピソードはまだ続く。そんな経緯もあり、高田にだけは「偉大な先輩からポジションを奪った」ことで引け目を感じていた。そのため、どこかよそよそしい態度を取っていたが、あるときトイレで隣同士になったときに、高田から「変に気を使うな。監督に選ばれたのだから胸を張ってプレーしろ」と言われて、気兼ねなく「絶好調!」を連呼。持ち前の明るさでチームリーダーを自認するようになった。

この頃の巨人は優勝できないシーズンも多く、また78年の「空白の一日」に端を発した江川問題により、世間から「悪役」の扱いを受けることも増えていた。そんなどこか沈滞ムードが漂う中で、中畑の明るさは巨人ファンにとって一服の清涼剤となり、面白おかしくメディアに取り上げられる機会も増えていった。

師匠の長嶋と同じく、記録よりも記憶に残る選手の中畑。タイトル争いに絡んだのは1987年の首位打者ぐらい(最後5試合ノーヒットで打率を下げ、3割2分1厘のリーグ6位)で、特別に際立った成績を残したわけではなかった。しかしレギュラー定着以降のおよそ10年間は、ほぼ3割前後の打率と2桁本塁打を記録するなど安定した活躍を見せた。

自ら絶好調と言う以上は、多少の病気やケガをしても表に出すことはできない。そんな心構えでいたからこそ、三塁手の座を原辰徳に奪われ、そこから移った一塁手の座を駒田徳広に脅かされ、4番の座をレジー・スミスに譲ったりしながらも、強い気持ちを保って主力を張り続けることができたのだろう。

常に明るい中畑をどこか能天気に見る向きも少なくないだろうが、後年に横浜DeNAベイスターズの監督になったときには「プロは見られてナンボの世界」「人に見られること、注目を集めることがどれだけ大事かってこと」などと、持論を展開している。

コーチを経て球団監督も務める

そもそも絶好調と言い出したのも、土井がきっかけとはいえ長嶋監督の目を意識してのことで、実は単純な熱血タイプではなく計算高いところも備えていた。実際、1983年のシーズンでは、最終戦で打率がちょうど3割になったところで交代。のちに中畑は「(3割を切ってしまうと)契約更改の席での印象が変わるので」と話している。

また、故障離脱があった87年のシーズンは、復帰後に首位打者を狙える打率であったことから、規定打席に到達するため1番打者としての出場を続けた。もちろんチームの後押しがあってのことだが、優勝を争う中での特別待遇には、賛否両論が巻き起こった。さらに同年はレギュラー定着後で唯一、本塁打数が1桁に終わっていて、これは中畑が長打を捨てて打率優先でプレーしていたことによるものだろう。

表面的には「元気はつらつ」に振る舞う中畑だが、本音の部分ではきちんと頭を使っていた。引退後には巨人のコーチを経て、2004年のアテネ五輪では体調不良の長嶋に代わって監督代行を務め、DeNAから要請を受けて初代監督に就任。このときGMを務めていたのは、かつて中畑を激励した先輩の高田である。

単に元気だけが取りえの男であれば、こうした要職を任せられるはずがない。労働組合日本プロ野球選手会の初代会長も務めている。「絶好調!」と言い続けたその裏で、しっかりと自身のキャリアデザインをしていたに違いなく、そこを見込まれていたのだろう。明るさと計算高さの両面を持つことが、人生で成功するためには大切であると、中畑は教えてくれるのだ。

《文・脇本深八》

中畑清
PROFILE●1954年1月6日生まれ。福島県出身。安積商高から駒澤大を経て1975年にドラフト3位で巨人に入団。80年代の中心選手として活躍し、明るい性格でファンに親しまれた。1989年に現役引退。2012年からDeNA初代監督に就任し、15年までチームを指揮した。

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