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喫茶店で偶然知り合い結婚式まで~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

高校生のとき、まだ売れる前の前川清、クール・ファイブに長崎で偶然出会った話を前に書きましたね。実は、デビュー前から知り合いだったミュージシャンは他にもいるんです。

俺らがまだ関西で活動していたころ、喫茶店で相方とコーヒーを飲んでいると、「B&Bさんですよね?」と話しかけられた。「そうやで」、「花月で一度見たことあります。若手の中で一番面白いですよね」、「ありがとうな。ところでキミらは何してる人?」、「シグナルというフォークバンドを組んでいます」。後に『20歳のめぐり逢い』が大ヒットした、あのシグナルだったんですよ。ファンと聞いて嬉しくてね。俺らの夜の出番に招待したんです。

出番が終わり、シグナルの3人と飲みに行くことになった。花月から電車で10分ほどの距離にあるマンションに住んでいたから、その隣の居酒屋で4人で飲みましたよ。3人ともお酒が強かったですね。時間も遅くなったから「今日は家に泊まっていき」と誘ったんです。俺は野球部出身だし、田舎ではばあちゃんに育てられたから「家で飯でも食べて、泊まっていき」と口にしてしまうんですよ。

家に着くと、メンバーの田村(功夫)君が『20歳の〜』を披露してくれて、「僕らも頑張ってデビューしたいんです」と熱く語っていましたね。そんなことが7〜8回続き、花月でB&Bとシグナルで漫才とフォークバンドのライブをやろうと誘ったんです。チケットを手売りして、当日は約800人入る花月が満杯になりましたよ。吉本の人も「すごいな。新しい試みやな」と褒めてくれましたね。

結婚式にサプライズ登場

その後、彼らは東京のオーディションに見事合格し、一気に売れたんです。ちょうどウォークマンが出始めたころでした。大阪・日本橋の電気街へ、ぼんちおさむとウォークマンを買いに行くと、聞き覚えのある曲が流れている。「これ聴いたことあるな」、「めちゃくちゃ流行ってるがな」。俺はテレビをほとんど見なかったから『20歳の〜』がそんなにヒットしているとは知らなかったんです。

そして、B&Bも東京へ進出して、忙しくしていると、ある日、田村君から連絡があった。なんでも「これ以上、曲を作れないからスタッフになります」と。しばらくして新幹線でリードギターの住出(勝則)君に遭遇。田村君はスタッフも辞めて、滋賀の実家の近くで喫茶店を営んでいるというじゃないですか。

京都で番組収録があった際、タクシーを飛ばして田村君の喫茶店へアポなしで行くと驚いてましたね。その田村君は3カ月後に結婚式を挙げるという。俺は忙しかったから、スケジュールが分からない。でも、その日はたまたま京都で収録があったんです。

結婚式に祝電は打つけど、参加するとは言ってなかった。驚かせようと会場のホテルに着き、ホテルの人へ本人にバレないように伝えると、「田村さんのお友達で今日は参加できなかった島田洋七さんの代理人の方がお祝いに駆けつけています」と司会の人が紹介。俺が出ると会場は沸きましたよ。20分ほどしゃべって、すぐに京都へ戻りました。

前川清さんらにしろ、シグナルにしろ、無名時代に偶然、知り合った人が売れるなんて奇跡的ですよね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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