島田洋七 (C)週刊実話Web
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漫才のネタを毎回変えた“下心”~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

前回、2010年に上演した舞台『島田洋七のお笑い〝佐賀のがばいばあちゃん〟』で座長を務め、高橋惠子さんにものすごく助けられた話をしましたね。


実は、舞台の30年ほど前に高橋さんを一度お見かけしたことがあるんです。当時、俺たちは『笑ってる場合ですよ!』の司会を務めていた。番組内に劇団東京乾電池のコントコーナーがあったんです。その一員として高田純次が出演していた。ある日、高田純次に新宿ゴールデン街に飲みに連れて行かれたことがあったんですよ。


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その店に居合わせたのが、高橋さんの旦那さんで映画監督の高橋伴明さんでした。伴明さんに「ゴールデン街にも美味しい刺身を出す店があるんだよ。次はいつになるか分からないから今から行こう」と誘われて、その店へ移動したんです。そこへ入って来たのが、ものすごくキレイな人だった。その美しい女性が高橋惠子さんだったんです。俺は2人が夫婦だと知らなかったんですよ。どうやら、伴明さんが財布を忘れてきたらしく「財布をちゃんと持って行かないとダメじゃない」と届けに来たんです。


話を福岡・博多座の舞台に戻すと、芝居の中で5分ほど泥棒役の国分健二と漫才をするシーンがあった。ちなみに、国分健二と俺は『スティング』という漫才コンビを組んでいたことがあるんです。漫才は本職だから安心しましたね。初日の漫才シーンで舞台袖に目をやると、楽屋で準備をしているはずの高橋さんが俺らの漫才を熱心に見ている。初日の2回目の公演も高橋さんは舞台袖で見ていましたよ。

大女優さんに褒められ有頂天

初日を終えると「面白いわね。漫才のシーン大好き」と褒めてくれたんです。それから公演ごとに高橋さんは必ず見ている。本来ならお客さんは入れ替わっているからネタは変えなくていいんですが、高橋さんに毎回見られると俺もプロの漫才師のプライドで、楽日までネタを変えましたね。

もはや高橋さんを笑わせるために漫才をやっていたようなものですよ。毎日、芝居のことをそっちのけで、漫才のネタばかり考えながら食事もしていました。全部で50公演あったお陰でネタが増えました(笑)。


公演10日目、高橋さんや出演していた元『モーニング娘。』の中澤裕子らを食事に誘ったんです。みんなで寿司屋で食べていると、「漫才面白いですね。全部ネタが違うんですね」と高橋さんが感心する。心の中では「高橋さんがずっと見てるからやろ」と思いましたけど、そんなことバラせないでしょ。「自伝が売れて、映画やドラマ、お芝居になるのはなかなかないことですよ」と大女優さんに褒められて嬉しかったですね。


公演の約1カ月間は、外へ食事に行きましたけど、ほとんど酒は飲みませんでした。酒を飲んだら喋って声が出なくなりますからね。最終公演が終わると「約1カ月の公演でよく声が嗄れませんね。喉が強いんですね」と高橋さんからまた褒められ、有頂天になったのを覚えていますね。


普通、初めて座長を務めると、途中で声が出なくなるらしいんです。それは高橋さんが蜂の巣が入ったハチミツをプレゼントしてくれて、毎日スプーンで舐めていたからかもね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。