江夏豊(C)週刊実話Web
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江夏豊「野球は一人でも勝てる」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第29回

現役前半は先発完投型の快速左腕として、そして後半は一転、制球力抜群の鉄壁クローザーとして、常に強烈な印象を残してきた江夏豊。希代の大投手を支えてきたのは猛烈な勝負根性、そして己への絶対的な自信とプライドだった。


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1973年8月30日、阪神タイガースの絶対的エース、江夏豊は中日ドラゴンズ戦で延長11回を投げ切り、ノーヒットノーランを達成。しかも自らのサヨナラホームランによって、この試合の幕を閉じてみせた。


同一試合でノーヒットノーランとサヨナラ本塁打を達成したのは、長いプロ野球の歴史においても江夏しかいない。試合後、江夏は「野球は一人でも勝てる」、もしくは「野球は一人でもできる」と語ったと伝えられる。


実際には、記者からの「野球は一人でできますね?」との問いかけに「そうやね」と相づちを打っただけというが、そうだとしても江夏の尊大なまでの自信がうかがい知れる。


プロ野球界の記録ということでは、江夏の上をいくレジェンドもたくさんいる。だが、数多のエピソードに彩られる江夏の球歴をたどると、これに比肩する選手はなかなかいない。


本格的に野球を始めたのは高校進学後であったが、当時、無名のチームをエースとしてけん引。甲子園出場こそかなわなかったものの、地区予選の好投により1966年のドラフトでは阪神、巨人、阪急、東映の4球団から1位指名を受けている。

トレード志願し移籍後も優勝に貢献

阪神に入団した1年目は、まともな変化球が投げられない中、先発として29試合に登板した。12勝13敗と負け数は先行したが、そのうち2試合で完封勝利。奪三振225はセ・パ両リーグの最多で、大器の片鱗をしっかりと見せつけた。

2年目にカーブを習得するとリーグ最多の25勝を挙げ、さらには今も歴代最高記録として輝き続けるシーズン401奪三振までも達成している。


同年9月の巨人戦。稲尾和久の持つシーズン最多奪三振記録353に王手をかけた江夏は、王貞治からの新記録達成を決意した。その思惑通りに王から三振を奪ったかと思いきや、実はタイ記録だったと知らされる。すると江夏は、他の打者をあえて凡打に打ち取って、次の王の打席で新記録を達成した。


のちに江夏はこの場面を振り返り、「王さんに打席が回るまでの間に、他の打者たちから三振を取らないようにするのが、むしろ大変だった」とうそぶいている。なお、この試合でも江夏は延長12回、自らのサヨナラ安打で勝利を手中にしている。


1971年7月のオールスター第1戦では、先頭打者から9人連続奪三振を達成。9人目となった阪急・加藤秀司がファールフライを打ち上げた際には、捕手の田淵幸一を「追うな!」と制し、次に投じたど真ん中の直球で三振を奪ってみせた。オールスターでは前後の登板も合わせ、15連続奪三振を記録している。


左腕の血行障害や持病だった心臓病の影響から、球速が落ち、長いイニングを投げられなくなると、トレードで移籍した南海・野村克也監督の下で技巧派リリーフに転身。パ・リーグ最優秀救援投手となった。


1977年オフに恩師の野村が南海を解雇されると、江夏はこれに殉じてトレード志願。移籍した広島でも救援投手として活躍し、79年には自身初のリーグ優勝。胴上げ投手となり、MVPにも選ばれた。

日本野球界屈指の名場面

さらに、近鉄との日本シリーズでは勝てば日本一、負ければ敗退の第7戦、9回裏無死満塁のピンチを見事に抑えきってみせた。このときの投球は「江夏の21球」として評判を呼び、中でも「投球動作の途中に相手打者のスクイズを悟って、カーブの握りのままボールを外した一球」は、今も日本球界屈指の名場面の1つに数えられる。

これについては「偶然すっぽ抜けただけでは?」とみる向きもあるが、江夏自身は「意図的に外した」と明言しており、のちに自著で「あの球は水沼(四郎)じゃなきゃ捕れなかった」と回顧している。


なお、このときのピンチは江夏自身が招いたもので、並の投手なら震え上がりそうな場面だが、江夏はいつも通りのふてぶてしい態度を崩さなかった。それどころか広島の古葉竹識監督が次の投手を用意しているのを察知し、マウンド上で激高していたという。1981年には移籍先の日本ハムで、リリーフエースとしてリーグ優勝に貢献。日本球界初の両リーグMVPにも輝いた。その後に移籍した西武では広岡達朗監督の管理野球に反発し、84年に退団。現役引退の発表とともに、渡米してミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結んだ。


結局、メジャー昇格はできなかったが、江夏は「俺は広岡という男に『死に場所』を取られた。もう一度、納得できる場所で投げてみたかったが、大リーグのキャンプに参加して納得できた」とコメントしている。


こうして改めて江夏の野球人生を振り返ってみれば、「少年漫画の主人公」と形容するよりも、むしろ「漫画が江夏の真似をした」というのが実際のようにも感じられる。


《文・脇本深八》
江夏豊 PROFILE●1948年5月15日生まれ。兵庫県出身。1966年に阪神入団後、引退まで5球団で活躍。現役時代は「優勝請負人」の異名を取り、現在も20世紀最高の投手の一人として語り継がれている。