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「都市政策大綱」田中角栄の事件史外伝『史上最強幹事長―知られざる腕力と苦悩』Part5~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

自民党議員による相次ぐスキャンダルの発覚、いわゆる「黒い霧事件」で、自民党幹事長として引責辞任を余儀なくされた田中角栄は、無聊をなぐさめるようにゴルフに熱中していた。

それまで「あんなものは絶対やらん」とゴルフの誘いをすべて断ってきた田中だったが、一度、無理やりコースに引っ張り出されてからは、「世の中でゴルフくらい面白いもんはない」と一変、時間の許す限りゴルフに入れ込んでいた。

ところが、それまでの大蔵大臣、幹事長としての実績、政治手腕が、すでに自民党内で広く認知されていたことで、党内から「あんな男を遊ばせておくのはもったいない」という声が上がり始めた。

とくに田中が戦後復興のために、住宅、道路など大量の議員立法を次々に成立させたことも手伝い、これを高く評価していた坂田道太(元文相、元衆院議長)、原田憲(元運輸相)の両代議士が熱心で、2人はこう田中を説得した。

「角さん、あんたは若いときから国土政策に汗を流してきた。それがいま、人口過密の都市問題、対して地方の過疎問題が厄介になってきている。どうです、あなたを長とした調査会を自民党内につくり、こうした問題について真剣に取り組もうじゃないですか」

これを耳にした田中の決断は早く、二つ返事で「よしッ、やろうじゃないか」であった。

渾身の「都市政策調査会」

田中の中に、長年の懸案であった都市と地方の格差をなくすため「新しい国家改造論をまとめてみたい」との思いが、改めてフツフツと頭を持たげてきた。もとよりその先には、これをやがて「天下取り」の際に掲げる政策の根幹にするとの思いがあったことは、言うまでもなかった。

昭和42(1967)年3月16日、ここに「自民党都市政策調査会」が立ち上がり、田中は会長に就任した。副会長を9人選出、うち会長代理として、先の坂田、原田の両代議士を決めた。さらに、田中自らが「ヤル気がある議員」として選んだ衆参100人超の議員がメンバーになった。

これだけの議員が一調査会に集まるのは異例で、自民党内の「田中人気」がしのばれた。田中の調査会への取り組みぶりは凄まじく、当時の自民党担当記者のこんな証言が残っている。

「田中は一つの仕事に取り組むときは、常に全力投球で知られていたが、調査会長としての仕事ぶりがまさにそれであった。まず、起草委員会をつくり、各省庁、地方自治体などから2トントラック1台分にのぼる資料を集め、これを早坂茂三秘書ら側近が分析、草稿をつくった。田中の指示で、この草稿は63回も書き直したそうだ。さらに総会25回、正副会長会議9回、分科会18回、起草委員会18回が開かれ、田中は正副会長会議はもとより、時にその他の会にも顔を出しては熱弁をふるったものだった。

そうした経緯を経て、調査会の立ち上げから大小70回の会議を重ねた1年2カ月後、昭和43年5月22日の総会において約6万語にのぼる『都市政策大綱』(中間報告)を決定、その後、自民党総務会でも了承された。ちなみに、田中はこの調査会に、ポケットマネー5000万円を投入したと言われている」

当時の5000万円は、いまの貨幣価値からすると4億円ほどになるから、田中の意気込みが知れたということでもあった。

一方、この「都市政策大綱」に対する反響は大きく、普段は田中のことをあまり褒めず、言わば〝天敵〟であったはずの「朝日新聞」が、一面トップで要旨を紹介したうえ、「自民党都市政策に期待する」と題した社説まで掲載した。その社説の一部を要約してみると、次のようなものであった。

田中角栄の“成果”で参院選は現状維持

「自民党の都市政策調査会が、都市政策の大綱を発表した。産業構造の変化と、都市化の急激な流れは、都市地域の過密と、地方の過疎による幾多の弊害をもたらし、国民生活に不安と混乱を与えている。

ところが、わが国では、これまで政府も政党も、総合的、体系的政策に欠け、その施策は個々バラバラの対症療法として、ほころびをつくろうものばかりであった。それを20年後の都市化の姿を展望し、問題解決の方向、手法を、単なる理論でなくて、政策ベースに乗せたという意味で、この大綱は高く評価されてよい。

しかも、『過去20年にわたる生産第一主義による高度成長が、社会環境の形成に均衡を失い、人間の住むにふさわしい社会の建設を足ぶみさせた』と反省し、公益優先の基本理念をもとに、各種私権を制限し、公害の発生者責任を明確にしたことなど、これまでの自民党のイメージをくつがえすほど、率直、大胆な内容を持っている。

むろん、個々の政策についてはいろいろな批判があるだろうが、あらゆる都市問題を取り上げて、これを整理し、これまでの法律や制度にとらわれず、大胆な方策を打ち出したことは立派である。問題は、どこまで実行できるか。われわれは、政府、与党が勇気をもって、実現に努めることを期待する。同時に、都市問題の解決には『一政府、一党だけでは実現できない』という大綱の前文通り、野党はむろん、広く国民の理解と協力が大切であることを強調しておきたい」(昭和43年5月28日付)

こうした「大綱」の〝成果〟により、自民党はこの年7月の参院選で大幅な議員減が予想されていたが、からくも現状維持を果たすことができた。もとより、田中としては「してやったり」の手応えということであった。

一方、田中はこの〝論功行賞〟も手伝い、参院選から5カ月後の12月、第2次佐藤(栄作)内閣の改造人事で、3期目の幹事長に就任することになった。

折から、全国で大学紛争が激化の様相を見せ始め、田中が新たなポストに就くと必ずのように起こる「事件」が、またまた待ち受けるのだった。

(本文中敬称略/Part6に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。