
自民党議員による相次ぐスキャンダルの発覚、いわゆる「黒い霧事件」で、自民党幹事長として引責辞任を余儀なくされた田中角栄は、無聊をなぐさめるようにゴルフに熱中していた。
それまで「あんなものは絶対やらん」とゴルフの誘いをすべて断ってきた田中だったが、一度、無理やりコースに引っ張り出されてからは、「世の中でゴルフくらい面白いもんはない」と一変、時間の許す限りゴルフに入れ込んでいた。
ところが、それまでの大蔵大臣、幹事長としての実績、政治手腕が、すでに自民党内で広く認知されていたことで、党内から「あんな男を遊ばせておくのはもったいない」という声が上がり始めた。
とくに田中が戦後復興のために、住宅、道路など大量の議員立法を次々に成立させたことも手伝い、これを高く評価していた坂田道太(元文相、元衆院議長)、原田憲(元運輸相)の両代議士が熱心で、2人はこう田中を説得した。
「角さん、あんたは若いときから国土政策に汗を流してきた。それがいま、人口過密の都市問題、対して地方の過疎問題が厄介になってきている。どうです、あなたを長とした調査会を自民党内につくり、こうした問題について真剣に取り組もうじゃないですか」
これを耳にした田中の決断は早く、二つ返事で「よしッ、やろうじゃないか」であった。
渾身の「都市政策調査会」
田中の中に、長年の懸案であった都市と地方の格差をなくすため「新しい国家改造論をまとめてみたい」との思いが、改めてフツフツと頭を持たげてきた。もとよりその先には、これをやがて「天下取り」の際に掲げる政策の根幹にするとの思いがあったことは、言うまでもなかった。
昭和42(1967)年3月16日、ここに「自民党都市政策調査会」が立ち上がり、田中は会長に就任した。副会長を9人選出、うち会長代理として、先の坂田、原田の両代議士を決めた。さらに、田中自らが「ヤル気がある議員」として選んだ衆参100人超の議員がメンバーになった。
これだけの議員が一調査会に集まるのは異例で、自民党内の「田中人気」がしのばれた。田中の調査会への取り組みぶりは凄まじく、当時の自民党担当記者のこんな証言が残っている。
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