島田洋七 (C)週刊実話Web
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圧倒的スケールが違ったジャイアント馬場~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

先日、プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなりましたが、同じく昭和を代表するプロレスラーのジャイアント馬場さんには、何度か遭遇したことがあるんです。


最初は漫才ブームの頃。俺らは土日になると営業で全国各地へ飛んでいた。羽田空港へ行くと、40メートルくらい先に体の大きな人がいて、すぐに馬場さんだと分かりましたね。


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近寄って「握手してください」と頼むと、中指と人差し指だけ出した。当時、プロレスは大人気だったから、ファンが握手を求めてくるから面倒なんだろうなと思って手を握ると、普通の人の4本分ありましたよ。俺らのことを知っていたみたいで「頑張ってね」と声を掛けてもらった。


次に会ったのがテレビの正月特番。プロ野球やプロレスラー、漫才師などいろんなジャンルの人たちが4~5人でチームを結成し、クイズで競う番組でした。


収録開始まで1時間半待たされた。馬場さんを見つけた俺が挨拶すると、「待ち時間長いね」とこぼしていましたよ。そうしたら付き人を呼んで、「俺はもう帰る」と言って帰っちゃったんです。プロレスラーチームは残された人たちだけで収録に臨んでいました。


収録中盤、スタジオに馬場さんが突如現れた。どうやら楽屋で寝ていたようです。馬場さんが姿を現すと、スタジオは大盛り上がり。出演者は100人を超えていましたけど、体の大きさや個性的な顔だけでなく、存在感もダントツでしたね。

身体の大きさと存在感は3人分!?

3回目に会ったのは、打ち合わせで訪れた銀座のホテルの喫茶ルーム。挨拶すると、コーヒーを勧められ、馬場さんの前に俺ら2人が座った。馬場さんは3人分くらいのソファに1人で座っている。運ばれてきたコーヒーカップを見ると、エライ大きいんです。普通のだと指が入らないらしくて、特注品みたいでしたね。

馬場さんは、元巨人のピッチャーだったでしょ。俺も高校まで野球をやっていたから、「なんで野球やめたんですか?」と聞いてみたんです。そうしたら「振りかぶって投げようとしたら、キャッチャーの頭を殴ってたんだよ(笑)」。面白いから、その後、何度かネタで使わせてもらいました。


4回目に会ったのは新幹線でした。若手のプロレスラー何人かが新幹線の入り口に頭をぶつけないよう屈んで乗り込んできた。最後に馬場さんがさらに屈んでました。俺らを見るなり「もうちょっと新幹線は大きく作れば乗りやすいのにね」。心の中では「あんたが大きすぎるんでしょ」と思いましたけど、「はい」としか答えられませんでした。


5回目は寿司屋ですね。俺らと馬場さんの席は離れていたけど、ずっと見ていたんです。板前さんは握った寿司を客に出す前に一度まな板に置くでしょ。そこに置かれた寿司を2巻同時に掴んで食べてました。俺らじゃ、そんなところにまで手は届かない。板前さんがまな板に置く度になくなるから「もう食べたんですか?」と驚いてましたよ。


長い芸能生活の中で、いろんな方に会いましたけど、体の大きさだけでなく、存在感は一番でしたね。


ところで、話は変わりますが、俺が作詞した曲を「洋七コラボCD」で検索すると、YouTubeで無料で聴けます。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。