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鶴田浩二「太い筋を通した完全主義者」~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

鶴田流は、麻雀をやるのが第一目的である以上、それにふさわしい環境と心構えを優先させる。酒や煙草、あるいは食事などに気を散らさず、ベストの摸打ができることを念頭に入れて、自身のみならずお客にもそれを遵守してもらう。

その代わりゲームが終了すると、お手伝いさんから食べきれないほどの、それも超一流の食事とデザートが運び込まれる。

鶴田邸の麻雀は、死の1カ月前まで行われたが、87年5月9日の深夜が最後となった。その後に発熱し、翌日入院。6月16日、昭和を代表する映画スターは帰らぬ人に…。

鶴田がたしなんだギャンブルは麻雀オンリー。競馬は「馬が走って、他人が乗っているものに、何が信用できるか」と言って手を出さなかった。株など投機的なものにも無関心だった。

鶴田の評判は必ずしも良いものばかりではない。好き嫌いが激しく、屈折したプライドからか衝突や暴言も多かった。撮影所においても、宇野重吉、三國連太郎とは犬猿の仲で、口もきかなかったという。何か伝言があるときには、人を介して行っていた。その場合、丹波哲郎が買って出ることが多かったという。

高倉健ら“明大三羽ガラス”との因縁…

かつて俳優の仲良しグループの一つに、〝明大三羽ガラス〟と言われる人たちがいた。明治大学の運動部に属していた高倉健、山本麟一、今井健二の3人である。ある日、鶴田とこのグループが、ささいな事で喧嘩が始まった。

高倉は63年3月公開の映画『人生劇場 飛車角』で鶴田と共演しており、良好な関係だけに「やめましょうよ…」と止めにかかるが、鶴田は首をタテに振らない。結局、鶴田の言で「お互い、役者同志だ。顔だけは殴らずの勝負だ」ということになった。ところが、まず山本が向かい合い、タックル一発で鶴田が倒れる。山本は明大ラグビー部出身だけに、無類の強さを発揮したが、負けたとはいえ鶴田の美学は揺るがなかった。

後年、山本が闘病生活を送っていた際、鶴田は過去のことは水に流して病室の彼を見舞った。そして、看護師や入院患者にサイン、握手などを気さくに応じた。

悪役ばかりで一般的なイメージが良くなかった山本だが、「あの大スター、鶴田浩二がわざわざ見舞うほどの人物なのか」と評価は一変。その後は山本に対する病院側の扱いが良くなったため、鶴田は山本とその妻から、とても感謝されたという。

鶴田浩二(つるた・こうじ)
1924~1987年。兵庫県西宮市出生、静岡県浜松市出身。終戦時は海軍軍人。1948年、映画デビュー。60年、東映に入社。以後、任俠スターとして大活躍。テレビ、歌謡界でもヒットを放つ。90年に映画殿堂入り。

 

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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