
洋八との東京生活がスタートしましたが、レギュラー番組はなかなか決まりませんでしたね。夕方に放送されていたお笑い番組に出演するくらいで、あとは営業に行ってました。
東京に進出してから初の全国ネット番組は『花王名人劇場』でした。当時のギャラは事務所から月給制で15万円。住む場所は、事務所が洋八と2人で住むためにマンションの1室を借りてくれていたから、15万円でも生活できました。
でもね、俺は大阪に嫁さんと子供を残してきたから、仕送りしないといけない。15万円のうち12万円は仕送りに充てていたから、残るのは3万円ほどでした。洋八は後輩ですけど、その頃は「洋八師匠」と呼んで、しょっちゅう飯をご馳走になってましたね。
全国ネットの初レギュラー番組は『日本全国ひる休み』。全国ネットだから、広島の母親も佐賀のばあちゃんも見ることができたけど、視聴率が振るわなかったようで、すぐに打ち切りになってしまったんです。
その番組が終わる前に、フジテレビのプロデューサーが4人くらい俺らのところに来たんです。なんでも後番組として『笑ってる場合ですよ!』という番組が月曜から金曜まで始まるという。その総合司会をB&Bに務めてほしいと。『花王名人劇場』での俺らの漫才を見て、ぜひ使いたいと言ってくれたんですよ。
絶対即決の仕事に対して洋八は…!?
「月曜から金曜まで生放送だけど、毎日司会やってくれるかな?」。「いいとも!」いや、「ありがとうございます。お願いします」と俺は即、快諾しました。そうしたら洋八は「週に1日、木曜日だけは休ませてください」と言い出した。「なんでやねん?」と聞くと「木曜日はうどん屋のアルバイトの日やから」。3カ月くらい週に1度、洋八はバイトしてたんですよ。それを聞いたプロデューサーたちは大爆笑でしたね。
「全国ネットの司会とうどん屋のバイトのどっち取んねん?」
そうツッコむと、「平日の昼間は忙しいねん。お世話になっているからな。辞めさせてくれるかな?」と心配している。「そういう問題じゃないねん。忙しかろうがなかろうが、全国ネットのレギュラー番組に出るために東京に来たんやろ。辞められないなら、俺が言いに行ったるわ」と言うと納得していましたけど、本当に面白いやつですよ。
番組は俺らが総合司会で、曜日別にツービートや紳助・竜介、春風亭小朝などがレギュラー出演していた。だんだんとお笑いが盛り上がり始めた時期だったから、お客さんも若い人を会場に入れていましたね。
『笑ってる場合ですよ!』のプロデューサーだった横澤彪さんが漫才番組を始める時、若い人を意識して「〝THE MANZAI〟と横文字が良いんじゃないですか」と提案したんです。それまで漫才はどうしても年配の方が好む印象があったのか、お客さんも年配の人ばかりだったんです。
前回、東京に進出して来た頃の話をしましたけど、売れるまで芸人は漫画のような生活をしていましたよ。それでも売れるのはほんの一握り。たけしだって売れたからこそ凄い人として見られる。いまも若い芸人がどんどん出てくるでしょ。そういうのをテレビで見ると、頑張れと思いますね。
島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。
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