田村亮(C)週刊実話Web 
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インタビュー・田村亮(ロンドンブーツ1号2号)〜上京、コンビ結成、レギュラー進出、闇営業問題、謹慎…〜

近年、闇営業問題に端を発するネガティブな話題で取り上げられることの多かったロンドンブーツ1号2号の田村亮さん。しかし、持ち前の笑顔は変わらず。最近はYouTube趣味を楽しむ姿を披露し、変わらぬ人気を誇っている。今回は相方の田村淳さんとの出会いや若手時代にあった現在ではNGな話を中心に聞いた。


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――亮さんは、大阪府高槻市出身ながら、東京吉本でデビューされています。当時はなかなか珍しいケースだと思うのですが、その経緯をお聞きしたいです。


ロンブー・亮(以下、亮)「僕は大阪出身と言いつつも『難波に新喜劇を見に行こか』って劇場に出掛けた経験はなかったんですよね。ただ、テレビの影響は受けていたから、高校生の頃は『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ系)の公開収録に通ってたんですよ。午前中、学校に行ったら、昼に抜け出して整理券をもらいに行く。毎週のように行ってたら、単位が足りなくなって危なかった(笑)」


――劇場ではなく、観覧に通うタイプだったんですね。


亮「いま思うと一人で公開収録に通っているぞ、という優越感的なものがあったんでしょうね。当時は、ラジオも聞いたりして『ヤングタウン』(MBS)に投稿もしました」


――ハガキ職人をしていたということですか?


亮「そんな大層な感じじゃないです。兄がヤンタンでハガキを何度か読まれていたのですが、それが癪に障って(笑)。だから自分も投稿してみたら、2〜3回目で読まれたので『ほら! 俺が書く気になればすぐ読まれるんだぞ』と。自信になった出来事でしたね」


――芸人になろうと本格的に考えたのはいつですか?


亮「僕は高校卒業後に一度、地元のスーパーに就職したんですが、1年経って本当にやりたいことは何か考えたんです。それで、お笑いが好きなことと、ヤンタンに投稿したことを思い出して、無理でもいいからやってみようかなと決めました」


――それから上京されるわけですが大阪のNSC(吉本の養成所)に入る選択肢はなかったんでしょうか?


亮「当時、『大阪芸人は二度売れなアカン』っていわれてたんですね。だったら、東京で一発目で売れる方が確率は高いんじゃないかと」

『銀座7丁目劇場』はバチバチ!

――それは慧眼というか賢明なご判断。すごいです。

亮「自分の中で焦りがあったんですよ。既にスーパーで1年間過ごしていたから。当時、(千原)ジュニアさんとかは、もう10代でテレビに出てましたし、遅れを取り戻したかった」


――そして、東京に出てきて、淳さんとコンビを結成。


亮「『集団田中』というお笑い劇団で、たまたま『同じ名字の奴が相方を探してるよ』と言われて、淳を紹介されたんですよね」


――印象はどうでした?


亮「山口出身の子と聞いていて、会ってみたら、爽やかで垢抜けた雰囲気で驚きました。僕はコンビでネタをやりたいという欲が強くて、ある程度方向性も合致したので、即結成しました」


――ロンドンブーツ1号2号の誕生ですね。当初、お2人は原宿の路上ライブで大人気だったとか。


亮「当時はストリートでお笑いをやってる人はいなかったし、関西弁だったから、物珍しかったんでしょうね。で、ちょうどその頃に吉本が大々的なオーディションを開催すると聞いて、受けに行ったんです。東京進出で常設劇場ができるからと」


――それが『銀座7丁目劇場』ですね。


亮「はい。最初のオーディションでは1500組の応募があって、どうせ辞めるだろうと400組も残したんですよ。その時の選抜メンバーがDonDokoDonやペナルティ。僕らは初め選抜でも何でもなくて」


――同期のオーディション組以外に劇場メンバーには、どなたがいたんですか?


亮「もともと東京吉本に所属していた極楽とんぼさんたちが、直属の先輩になりました。そこに大阪から『天然素材』(ナインティナイン、FUJIWARAらの人気ユニット)さんたちが来ていたんです。極楽さんたち東京組は自分らの劇場ができると思っていたのに、フタを開けてみたら天然素材さんがメイン。そこで、いわゆる東京vs大阪のバチバチのいがみ合いが勃発するんですよ。すべては、極楽さんのせいです!」

“素人イジり”の代名詞

――(笑)。やはり噂は本当だったんですね。

亮「加藤(浩次)さんは『絶対言ってねえ』って否定しますけど、僕は実際に『お前ら、アイツらと喋るなよ』とまで指示されていましたから。後に、宮迫(博之)さんに『最初、亮は悪い印象じゃなかったのに、ある時からコイツ〜って思った』って言われましたが、それは確実に加藤さんの命令の後です(笑)」


――ただ、ロンブーさんは後に天然素材さんの番組で、人気に火が付きましたよね。


亮「劇場で努力した甲斐がありました。僕らは『急性吉本炎』(TBS系)という番組で、街のコギャルを思いっきりビンタする企画を担当していたんです。今では考えられないですよね!」


――その企画で〝素人イジり〟がロンブーさんの代名詞になりました。素人さん相手だと、ハプニングも多かったのでは?


亮「ありましたね。一度、浮気調査企画の『ガサ入れ』で女の子が全然口を割らなかった時、実はその子が俺の大ファンだったので、淳が『亮の下半身見せたら言う?』って聞いたんですよ。すると、ウンッて言うもんだから、カーテンの裏に行って見せました(笑)」


――ええ! 演出でなく?


亮「ガチですよ。キャーッて声だけ放送されました」


――すごい…。ちなみに当時ロンブーさんは、いつも女性のファンに囲まれてモテモテだったイメージです。


亮「そこに関しては複雑で…。僕は学生時代にモテた経験が一度もなくて、急にキャーキャー言われて戸惑ったし、嫌な気持ちになったんです。性格的にひねくれているので『あなたたちは僕が高校生の時バレンタインにどんな思いをしてたか知らないよね?』って!」


――なかなか、こじらせてますね(笑)。


亮「吉本興業所属のロンブー亮になったから、みんなその看板に騒いでるだけ! どうせ何年後かには他の人のところに行っちゃうって知ってるから、と。卑屈な性格だったんです」

闇営業問題での難しい決断

――それは意外でした!その後、『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)では素人さんだけでなく芸能人企画も増えて、さらに無茶苦茶感が増していきますよね。

亮「派手な企画の中でも、一番は出川(哲朗)さんのロシアで落とし穴じゃないかな。日本、パリ、モスクワと一人の芸人のために世界をまたいで…そりゃ面白いに決まってる! すごい時代でした」


――最近の『ロンハー』の現場はいかがですか? 若手の出演者も多いですが。


亮「みんな貪欲ですよね。僕としては、少しでも足しになるチャンスを渡したいな、と思っています。でも本当は僕も前に出ないといけないんですけどね。番組に復帰したのにトーンダウンしてたら意味ないですから。そこは意識しつつです」


――なるほど。立ち入った話になりますが’19年に『闇営業問題』が浮上し、謹慎期間もありました。当時を振り返っていかがですか?


亮「いまだに、僕の中でちゃんとした答えは出ていないですね。今でこそ先輩や芸人仲間にイジられて笑いにすることはあっても、あの時どうすれば良かったとか、何がしたかったかとか、自分の中で答えは分からないし、今後も消化しきれないと思います。正解は出ないんです」


――難しい決断も多かったと思いますが、中でも淳さんが会社を立ち上げることにした際は、どのようなお話をされたのでしょうか?


亮「淳の判断と僕の希望、いうなれば僕のワガママが合致したので、決断は早かったです。僕がお願いしたことを淳が具現化してくれたような形ですね」


――意見が食い違うようなことはなかったんですか?


亮「幸いにも。俺が話したことを淳がしっかり理解してくれたうえで、今後の提案をしてくれたので、スムーズに結論が出ました」


――いま、個人事務所で活動していてメリットは?


亮「何をするのにもレスポンスが早くて、風通しが良くなったことがいいですね。自分で仕事をジャッジしつつ、淳やマネジャーがすぐに意見をくれるので、居心地よくやれています」


――素敵な環境ですね。今後の展望を教えてください。


亮「吉本の時は劇場もあったし、何でも企画しやすかったけど、今はYouTubeなんかも一から自分。なので、ゆっくり自分のペースで進めます。淳には『ジジイになっちまうぞ』って思われそうですが(笑)。頑張っていきたいですね」


(文/有山千春 撮影/丸山剛史)
田村亮(たむら・りょう) 1972年、大阪府出身。高校卒業後、大阪NSCを経ずに上京し、東京のインディーズお笑い集団に所属、そこで出会った田村淳と1993年にコンビ結成。翌年、吉本興業入りし、その後はトントン拍子でスターダムに。謹慎期間や活動再開を経て、現在はテレビだけでなくYouTubeなどにも活動の幅を広げている。