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蝶野正洋『黒の履歴書』~アントニオ猪木さんとの会話

蝶野正洋
蝶野正洋 (C)週刊実話Web

訃報の一報は、羽田空港で知った。そのまますぐに飛行機に乗り込んだので、それ以上の情報も確認できず、心の整理がつかないまま猪木さんのことを考えていた。

最後に猪木さんに会ったのはいつだったろうか。2020年の2月28日に、後楽園ホールで武藤さんプロデュースの『プロレスリング・マスターズ』が開催されて、そのリング上で猪木さんからのビンタを喰らった。

その翌月、猪木さんから誘われた食事会に藤波さん夫婦、木村さん夫婦、天龍さん、自分が集まった。あの日がたぶん最後になってしまったんだけど、俺は猪木さんとほとんど話してなかったような気がする。ただ、この日に限らず、俺は猪木さんとの会話が記憶に残ってない。

もちろん、言葉は交わしている。俺は付き人をやらせてもらっていたし、その後はリング上でも、プライベートでも交流はあった。だけど、なぜか会話の内容をまったく覚えてない。それだけ常に緊張していたのかもしれないし、俺なんかが同じ目線で話していい人ではないという想いがあったんだと思う。

猪木さんはいつも丁寧で、オーラがあって、努力されていた。

“闘魂”を受け継いだ人はいない

ただ一度だけ、俺は猪木さんに思い切り怒られたことがある。

あれは俺が新日本プロレスの取締役になって、役員たちが集まる会議に呼ばれた時のこと。その時、猪木さんは会長で、他にも部外取締役とか、偉い方々がたくさんいた。なのに、俺はいつもの癖で少し遅刻してしまった。

会議室に入るなり、猪木さんから「てめぇ何やってんだ! みんなに謝れ!」と物凄い剣幕で怒られた。

怒りに満ちた本気の眼をしていて、殺されるかと思った。

俺はその姿を見て、やっぱり猪木さんはカッコいいなと思ったんだよ。

それに、なぜか嬉しかった。あの猪木さんが、俺なんかに真面目に怒ってくれている。

猪木さんは、そういう想いにさせてくれる人だったと思う。ファンも、レスラーたちも、スポンサー筋も、みんな猪木さんのことが大好きで、それぞれが「俺だけの猪木」を持ってる。それを、お互いに競ってしまうんだよ。だから猪木さんの周りには、いつもジェラシーが渦巻いていた。誰もが猪木さんを独占したいからね。

俺たちより上の世代の方々は、猪木さんと距離がもっと近かったはずだから、その想いも強いんじゃないかな。

誰もが猪木さんに憧れたけど、猪木さんにはなれない。猪木二世もいないし、猪木さんの〝闘魂〟を真の意味で受け継いだ人もいない。

だからこそ、アントニオ猪木の闘魂は「永久欠番」でいいと思う。一代限りで、唯一無二だ。

自分は「闘魂三銃士」という命名を受け3人で競い合ってきたが、受け止め方はそれぞれみんな違う。改めて「闘魂」を通して、自分なりにアントニオ猪木さんを思い、振り返りたい。すべてにおいて、猪木さんには感謝と敬意しかない。

アントニオ猪木さん、本当にありがとうございました。安らかなご永眠をお祈りいたします。

蝶野正洋
1963年シアトル生まれ。1984年に新日本プロレスに入団。トップレスラーとして活躍し、2010年に退団。現在はリング以外にもテレビ、イベントなど、多方面で活躍。『ガキの使い大晦日スペシャル』では欠かせない存在。

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