アントニオ猪木さん(C)週刊実話Web
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さらばアントニオ猪木「IWGP構想の真実」新日本プロレス黒歴史

10月1日にこの世を去った〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さんを偲び、過去の『週刊実話ザ・タブー』に掲載した関連記事をプレイバックする。


【年齢・肩書等は掲載当時のまま】


2020年1月4日、5日にプロレス史上初の東京ドーム連戦を開催し、計7万人超の観客を集めた新日本プロレス。


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2日目のメインイベントは、これまたプロレス史上初となるIWGPヘビー級王者のオカダ・カズチカとIWGPインターコンチネンタル王者の内藤哲也によるダブルタイトルマッチで、熱戦を制した内藤が2冠王者となった。だが、ちょっと待っていただきたい。


もともとIWGPとは、世界中の王座を統一する目的で始まったはずなのに、それがいつの間に分裂してしまったのか。


タッグやジュニア王座はまだしも、ヘビー級だけで前記の2タイトルに加えてIWGP USヘビー級王座まであって、やはり4日、5日の両日でタイトルマッチが行われていたという。この現状にどこか納得がいかない、昔ながらのプロレスファンはきっと少なくないだろう。

K−1グランプリが“継承”!?

IWGPの正式名称はインターナショナル・レスリング・グランプリ。グランプリとはフランス語で「大賞」の意味であり、プロレスやボクシングの「王座」とは、そもそもの意味合いが異なる。

最高の栄誉を決めるための闘いというのがIWGP発想の原点であり、これはカンヌ映画祭におけるパルム・ドールやM−1グランプリの概念に近い。


2019年のM−1王者であるミルクボーイが「最高の漫才師」とたたえられながらも、ほかの漫才師とその栄誉を懸けて競うことがないのと同様に、IWGP王者も「世界一のプロレスラー」という栄誉が与えられることであって、これを王座として防衛戦を行うとは考えられていなかった。


1980年12月13日、東京都体育館のリング上における新間寿氏の発表も、最初は「世界中に乱立するチャンピオンベルトを統合し、真の世界一を決めるべくアントニオ猪木が来年から乗り出します!」というものであり、つまりは猪木が、正真正銘の世界一のプロレスラーであることを証明するため、大会を開催することがその真意であったのだ。


なお、このときはまだIWGPの名称は決まっておらず、当時、構想の段階で人気が高まっていたF1グランプリから、その呼び名を拝借している。


そもそもベルト統一というのは、かなり以前から猪木の頭にあったことで、73年にジョニー・パワーズからNWF世界ヘビー級王座を奪取したときのコメントで、すでに「これからはこのベルトを踏み台にして、ありとあらゆるベルトを狙っていく。僕の目標は日本の統一であり、世界の統一だ。リアルワールドチャンピオンを目指したい」と語っていた。


プロレスにおける王座とは、興行を盛り上げるアイテムとしての意味合いが強く、これを統一するとなると各地の興行が成り立たない…つまりは実現不可能という意見も多かった。


だが、これについては、世界中から選抜されたレスラーたちが、それこそF1グランプリのように世界各地のテリトリーを巡業するという、新たな興行形態で対応することも一案として考えられていた。


のちに、これに近い大会形式を実現したのが、全盛時のK−1グランプリである。世界各地で予選大会を行い、最後に優勝決定トーナメントを開催して年間王者を決めるというのは、IWGPの理想として掲げられたものに近似している。


当時の石井和義K−1プロデューサーは、たびたび「プロレスを参考にしてきた」と発言をしており、もしかするとK−1グランプリもIWGP構想を参考にしたものであったのかもしれない。

タイガー人気が構想の退潮を招く

80年代あたりまで、プロレス界の最高峰とされてきたのはNWA世界王座であり、そのNWAとは全日本プロレスのジャイアント馬場が太いパイプを持っていたため、新日の猪木には挑戦権すら回ってこなかった。

そんな状況を打破して、猪木自身が最高のプロレスラーであることを証明するために始めたのがIWGPであった。


世界規模での構想が発表された当初は、「また猪木の大風呂敷か」と話半分に受け取るファンも多かったが、81年4月にIWGPの正式名称が決まるとともに、世界6地域のプロモーターが来日して実行委員会が発足する。


同月の蔵前国技館大会では、猪木とスタン・ハンセンによるNWFヘビー級王座決定戦(前週に同タイトル戦が没収試合となり、王座はコミッショナー預かりとなっていた)が行われ、これに猪木が勝利すると王座の返上と封印を宣言。同時に、坂口征二の所持していたNWF北米ヘビー級王座なども封印された。


そして、続く5月のMSGシリーズ開幕戦に、全日の看板外国人選手であったアブドーラ・ザ・ブッチャーが登場。その場でIWGPへの「参加」を表明したことにより、それまで不透明だった構想が一気に真実味を帯び、がぜん盛り上がりを見せることとなる。


ところが、すぐに進展を妨げる事態が発生する。IWGPアジア地区予選と称して、日本人対決が思い出したように組まれたものの、その予選にどの選手が参加し、何試合が行われるのかなど明確な説明はなされなかった。


ブッチャーに続いて、全日第3の男だったタイガー戸口も新日に参戦したが、その報復としてハンセンら看板選手が全日に引き抜かれ、IWGP以外の話題ばかりが目立つようになっていく。


そんなドタバタが続きながらも、当時の新日は創業以来最高の活況に沸いていた。それはNWF封印試合が行われたのと同じ4月の蔵前大会で、颯爽とデビューしたタイガーマスクにより、空前のブームが巻き起こったからだった。


とにかくタイガーマスクが出れば、どこの会場も超満員で、テレビ中継の視聴率もうなぎのぼり。ケタはずれのカネがどんどん入ってくるのだから、新日としては手間のかかるIWGPが、どうしても二の次になってしまう。


さらには猪木自身もタイガー景気で得た利益をもとにして、アントンハイセルなどプロレス以外の事業に精を出すようになる。そうした事業計画自体は以前からあったものだが、カネを持ったことで本格的にのめり込むようになってしまったのだ。


タイガーに一切の非はないものの、結果的にはタイガーの出現がIWGP構想を中途半端なものにしてしまった。逆に言うと、もしタイガー人気が起こらずに新日と猪木がIWGPに専心していたならば、その後の展開もまた違ったものになっていただろう。

夢をぶち壊した猪木の自作自演劇

構想発表からおよそ2年半、83年5月にようやく第1回のIWGPリーグ戦が開催されることになる。

参加選手はアジア地区代表のアントニオ猪木、キラー・カーン。北米代表のアンドレ・ザ・ジャイアント、ディノ・ブラボー。米国代表のハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド。欧州代表のオットー・ワンツ、前田日明(当時の表記は明)。中南米代表のエル・カネック、エンリケ・ベラといった面々である。


このうち正式に代表者決定戦を勝ち抜いてきたのは、中南米のカネックとベラだけ。新日の管轄であるアジア予選すら明確な基準が示されていない状況では、他地区で予選が行われているはずもない。


欧州代表になぜか前田が選ばれたことにしても、直前に同地域でタイトルを獲得したからという根拠しかなく、鳴り物入りで登場したはずのブッチャーも参加しなかった。


リーグ戦の開幕直前、あろうことかブラボーが「家に強盗が入った」との理由で帰国してしまうと、北米代表として代役に選ばれたのは、どういうわけかラッシャー木村であった(もし予選があったなら、次点選手の繰り上がりでもよさそうなものだが…)。


当初の構想と比べると、その規模はすっかり小さくなってしまい、「これまでのMSGシリーズが名前を変えただけ」と揶揄されたりもしたが、それでも連日の熱戦によってファンの関心は高まっていく。


優勝戦に勝ち進んだのは猪木とホーガン。当時のホーガンは有力株とはいえまだ発展途上であり、ついに猪木が悲願の世界一を達成するときが来た…ほとんどのファンはそう確信していたが、当日の蔵前国技館で起こったのが、かの有名な「舌出し失神事件」である。


この一件はテレビや新聞の一般ニュースにおいても、「試合中のアクシデント」として報じられたほどで、その衝撃はすさまじいものだった。


一説には、「事件化することで世間一般からの関心を集めようとする猪木自作自演の策略だった」とも言われ、実際にその通りにもなったのだが、長年のファンの期待を一瞬でふいにしたという意味においては、罪深い結末と言えよう。


翌年の第2回大会は、前年覇者のホーガンへの挑戦権を懸けたリーグ戦として行われたが、第1回のときのような〇〇地区代表という肩書はなくなっていた。しかも、リーグを制した猪木とホーガンの優勝戦は、長州力の謎の乱入によってぶち壊され、ファンによる暴動騒ぎまで発生する散々な結果に終わった。

世界統一どころか王座乱立状態へ

壮大なスケールで始まったはずのIWGPが、どんどん尻すぼみになっていった原因の一つには、83年夏、猪木のアントンハイセル事業などへの不透明投資に端を発した社内クーデターがある。この内部的な激震により、それまで猪木の片腕としてモハメド・アリ戦の実現などに尽力してきた新間寿氏が、新日を離れてしまったこともあっただろう。

85年の第3回大会は「IWGP&WWFチャンピオンシリーズ」とのサブタイトルがつけられたことで、完全に世界戦略とはかけ離れたものとなり、さらに第4回はそのWWFとの提携も切れてしまい、いよいよ「普通のリーグ戦」の様相を呈していく。


そうして87年の第5回大会では、ついに優勝した猪木が初代IWGPヘビー級王者として認定されることとなり、その後は新日独自のチャンピオンシップとして継承されていく。なお、シングル王座に先駆けて、85年にIWGPタッグ王座が制定され、86年にはIWGPジュニアヘビー級王座も誕生している。


さらに、98年にはIWGPジュニアタッグ王座、04年にIWGP U−30無差別級王座(現在は封印状態)、11年にIWGPインターコンチネンタル王座、12年にNEVAR無差別級王座、16年にNEVAR無差別級6人タッグ王座、17年にIWGP USヘビー級王座が、それぞれ新日により認定された。


まさにIWGP自体がタイトル乱立を招き、当初の構想は跡形もなく吹き飛んでしまったのだ。