島田洋七 (C)週刊実話Web
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『B&B』相方・島田洋八との初舞台~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

何度か書いたことがありますが、『B&B』の相方は洋八が3人目なんです。2人目の相方は、西川のりお・上方よしおのよしおだったんですよ。


俺とよしおが組んでいたB&Bも大阪で3〜4本ほどローカル番組のレギュラーを抱えていました。そんな時、東京で全国放送の歌番組のコントコーナーを持っていた、あのねのねが途中で降りることになった。そこに抜擢されたのが俺とよしおでした。


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初めて東京の番組にレギュラー出演すると、大阪では見ないスターや歌手ばかり。大阪ローカルの番組とは全く雰囲気が違ったんです。それはギャラも同じで5〜6倍も違う。俺は東京へ行き来する度に、段々と東京進出を考えるようになったんです。同じお笑い仲間のセント・ルイスと話して、その気持ちはどんどん大きくなっていった。


ある日、よしおに「東京行かへんか?」と誘うと、「東京行くのは怖いわ。どこの事務所も知らんしな」と断られてしまった。よしおは大阪出身だし、地元の吉本興業に所属しながら活躍したい気持ちは痛いほど分かったんです。まだ漫才ブームの前で、東京に吉本の支社もない頃でしたからね。方向性の違いから、よしおとは円満にコンビを解散しました。

間違える洋八にツッコミ入れる

1人になった俺が劇場で他の芸人の舞台を見ていると、声を掛けてくれたのが桂三枝(現・桂文枝)さんでした。「また別れたらしいな。あそこにいる男前の彼はどうや?」と指差したのが、洋八だったんです。

洋八は新喜劇の進行係をしながら、通行人役でちょこっと出演する程度。「彼は漫才できますか?」と三枝さんに聞くと「お前があんだけ1人で喋れるんやから、なんでやねんだけ言わせておけばええねん。それにこれからは若い子の人気も大事や」とアドバイスされたんです。当時、三枝さんは『ヤングおー!おー!』の司会を務めていたから、そのアドバイスに従い洋八とコンビを組んだんです。


迎えた洋八との初舞台。緊張する洋八に「お前はなんでやねんだけ言えばええねん」と告げ、舞台に上がった。「どうもB&Bの島田洋七です」と挨拶すると、洋八は「なんでやねん」。稽古通りなら「島田洋八です」と言うはずなんですよ。「なんでやねん? じゃないねん。俺は本名、徳永昭広。芸名が島田洋七や」とツッコむとお客さんは大爆笑。


「もう1回、初めからやるで」と仕切り直してもまた「なんでやねん」と洋八。3回くらい繰り返しましたね。そんな漫才を誰も見たことないから、お客さんも笑いっぱなしですよ。


その時は俺が英語が得意というネタをし、洋八が日本語で「おまわりさん」と振ると、俺が「ポリスマン」と答える。「守衛さん」に「ガードマン」、「八百屋のおっさん」に「ピーマン」と返すと、「八百屋のおっさんはピーマンちゃうやろ。ピーマンは野菜やろ」と洋八。「わかってるがな。そういうネタやろ」。


会場は渦巻くくらい笑いっぱなし。舞台を降りると、なんばグランド花月の支配人や吉本の社員さんから「これは売れるわ。新しい形の漫才や」と褒められました。実は、洋八が間違えるから舞台の上で教えていただけなんですよ。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。