ガダルカナル・タカ (C)週刊実話Web
ガダルカナル・タカ (C)週刊実話Web

インタビュー・ガダルカナル・タカ〜大番頭が明かすたけし軍団「結成秘話」〜

バラエティー番組では常に「殿」ことビートたけしの側にあって進行をサポートし、軍団の活躍を陰に陽に支えてきたガダルカナル・タカさん。舌鋒の鋭さは情報番組でも重宝されているが、そこでは語られない自身の謎めいた芸歴について、さらには今後の展開についても話を聞いた。


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数多いる弟子の中で、唯一、「殿」ことビートたけしの頭をピコピコハンマーで叩くことができる、「たけし軍団の大番頭」ことガダルカナル・タカ。最近ではコメンテーターとしての顔も定着しつつあるが、この男が「けしからん軍団の一員」であり、とんでもないお笑いの一時代を築いたことを、忘れてはならない…。


高校を中退し、伊豆の温泉地・湯ヶ島で働き盛りの時間を無為に過ごしていたタカは、芸人など露ほども興味がなかったという。


ガダルカナル・タカ(以下、タカ)「あやしい行為をしていたオヤジ(笑)には旅館の料理長なんかの知り合いが多くて、オレは無職っていうのもナンだからと彼らの調理場を手伝わせてもらっていました。21歳のとき、知り合いの日本舞踊の先生から『太田プロで部長をやっている弟が独立するから手伝いに行ってくれ』と頼まれ、芸能界の裏方も面白そうだなと、行くことにしたんです」


上京したタカに、社長は「お前ができるのは踊りか歌かお笑いか?」と、当然のように問いかけた。


タカ「さっそくコント台本も渡され『演ってみろ』と。社長は裏方じゃなくて出方を探していたんです。結局、コンビ芸人を勧められ、湯ヶ島の後輩にいい奴がいるなと浮かんだのが、つまみ枝豆の顔でした」


半年後、上京を快諾した枝豆には真意を伝えず、事務所に連れて行った。突然台本を渡された枝豆は、半年前にタカがした顔と同じ表情をしていた。


タカ「本当のことを話すと渋るでしょう(笑)。彼は荒れてまっすぐ生きていない時期だったし、オレの目の届くところにいてくれたほうが安心だと思ったんですよ」


コンビ名は、事務所の先輩芸人セント・ルイスが「カージナルス」と命名。急に放り出されたお笑いの世界で、2人は手探りで奮闘した。


タカ「ネタの作り方もまったく分からない状態ですからね。演芸場へ連れられいろいろな舞台を見たり、ゆーとぴあ主催で、コント赤信号たちと中野の公民館を借りての勉強会もしていました」

どん底で誘われた草野球

1982年、お笑いのイロハをつかんだ実感もないまま、とんねるずやB&Bを輩出した『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)に出演。当時の審査員だった赤塚不二夫や京唄子にハマり、トントン拍子で8週勝ち抜いて金賞を受賞したのだが…。

タカ「力がないから、その先に繋がらなかった。そのうちに事務所が傾き、起死回生で台湾公演を打つことに。当時流行っていたヒゲダンスをやるように言われました」


神戸一郎とダンスチーム、そしてカージナルス一行で台湾へ。会場には「ドリフ来台!」の看板が掲げられている。「共演するなら挨拶しないと!」と焦るタカに、興行主が言った。「あんたたちがドリフだよ」と。


タカ「客は『志村でも加藤でもないけどドリフの誰かだろう』と思うから、大丈夫だと言うんですよ。半信半疑でヒゲダンスをすると、千人規模の会場が大ウケで大揺れ。公演期間中に地元テレビ局が取材に来たり、映画出演のオファーも来るほど人気者になったんです」


〝偽ドリフ〟は大盛況。だが、帰国したタカを待ち受けていたのは、「興行主が金を持ち逃げした」という無情な事実だった。


タカ「結局倒産し、オレたちはスポンサーの好意でカラオケスナックを無料で借り、次の展開を考えながら店をやることになりました」


店は若手芸人の溜まり場となった。『スタ誕』で知り合った、そのまんま東もそんな一人だった。


タカ「合鍵を作って女の子を連れ込んで酒を飲ませて、ホテル代わりに使われて(笑)。そんなとき、『ビートたけしさんが草野球チームを作るから入ってくれないか』と頼まれたんです」


タカにとって、たけしは別格のオーラを放つ、雲の上の存在。いざ野球場で対面した日は、初めてテレビに出演した日以上に緊張し、ほぼ記憶にないという。


タカ「後日、店に来て『おまえら、仕事もないだろ? オレはこれから若手と一緒にドリフとは違う形のグループを作って番組をやろうと思っているんだ。一緒にやらないか』と声をかけてくださったんです。あとで分かったことですが、オレたちの状況を知った上で、野球に誘ってくれていたんです」

日本をも揺るがした“フライデー事件”

1983年、たけし軍団が結成されると『スーパーJOCKEY』(日本テレビ系)を皮切りにキー局を網羅した。

タカ「一番楽しい時期でしたね。どこに行っても人気者にしてもらえた一方、師匠は『遊べ。その分、仕事も一生懸命やれよ』と喝を入れてくれ、かなりブレーキを踏んで師匠に迷惑がかからないように遊んでいました」


タカは「今なら完全にアウトだけど」と苦笑いしながら、こんなエピソードを話してくれた。


タカ「三重県の鈴鹿で、軍団のメンバーと女の子2人をナンパしたんです。『定員オーバーで一緒に車に乗れないな。1人トランクに入れば別だけど』と言うと、『私たち、入ったことあるから大丈夫だよ』って。で、鈴鹿から東京まで、女の子2人が助手席とトランクを交互に行き来してドライブ。オレたちはそういう遊びを許容する女の子を見極める嗅覚に長けていたんです(笑)」


さらに夜は、まるで用心棒のような顔ものぞかせた。


タカ「飲み屋で師匠が酔っ払いに絡まれたら、枝豆と2人で笑顔で『ダメだよぉ』なんて言いながら近づいて、動けなくしてから裏でグシャン!…というのは何度かあったけど、今はやっちゃいけないよね(笑)」


そうした「たけし軍団といえば武闘派」を体現し、日本を揺るがす事件に発展したのが、1986年の「フライデー襲撃事件」である。当時、たけしと交際していた女性への、フライデー記者による強引な取材に憤ったたけしは、12月9日、行動に移したのだ。


「納得いかないから、フライデーに行ってくる」


「我々も一緒に行きます!」


枝豆や、痔の手術で入院していたラッシャー板前ら数人を除き、版元の講談社へ。編集部のある階でエレベーターのドアが開くと、それまで抑えていたであろうたけしの理性の枷が飛び、十数人がいた編集部めがけ駆け出していた。


タカ「オレは被害を最小限に留めるつもりで同行しましたが、若い連中も傘や消火器を持って『ウリャー!』なんて始めちゃってるし、編集長の顔を見たら怒りが抑えられませんでしたね」

お笑いの勘が鈍ってきた?

たけしと共に大塚警察署に現行犯逮捕された軍団に、たけしがかけた言葉を、タカは一生の宝のように噛み締めながら話す。

「悪かったな。オレがおまえらの面倒を一生見てやるからよ」


タカ「感動しました。日に日に事件が深刻視され、『オレらはもう仕事は続けられないだろう』と思っていましたが、たけしさんが一緒にいると言ってくれるなら、それだけで別にいいやと」


謹慎中は取材攻勢を避けるため、湯ヶ島でタカの姉が営んでいた民宿に潜んだ。


タカ「師匠と東とずっと一緒にいて、あとはほかの軍団が交互に来ていました。毎日ゴルフをして、夜は師匠が持ち込んだ望遠鏡で天体観測して。師匠は仕事について一切触れず、小説か詩か、気付くと何かメモをしていました」


復帰する気があるのか心配になるほどの2人が、さらに戦慄した瞬間があった。


タカ「夜、ゆでたまごを食べていると、師匠が白身の部分だけを持って『白身、白身、郷しろみ』と…。愛想笑いするしかなく、あとで東と『ヤバいな、師匠、お笑いの勘が鈍ってきたのかな』と真剣に話し合いました(笑)」


1987年7月12日、『スーパー〜〜』で復帰すると、謹慎前と同様に人気を再燃させ、89年には今もお笑い界で語り継がれる、リアクション芸の金字塔であるハチャメチャ番組『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』(日本テレビ系)をスタートさせた。


タカ「ジミー大西が高層ビルから逆バンジーしたときと、師匠が沖縄の海で水中脱出したときは、本当にヤバいことになりそうでゾッとしましたね。師匠の下でお笑い運動センスを磨いていたオレらは、ケガをしないように派手に見せるリアクションに長けていて、ダチョウ倶楽部たちに伝承していました」


最近では『情報ライブミヤネ屋』(日本テレビ系)などで「日本に数少ない、切れ味の悪いコメンテーター(笑)」として重宝されているが、本意ではない。


タカ「本当はバカバカしいことがやりたいんですよ。今は手も足も縛られ猿ぐつわをされた状態で『はい、どうぞやってください』という時代ですが、どこか開き直った局が、叱られる覚悟でくだらないことをやってくれないかな。楽しくないことばかり取り上げなきゃいけない、こんな時代だからこそさ」


(文/有山千春 撮影/丸山剛史)
ガダルカナル・タカ 1956年、静岡県出身。21歳の頃に上京して、紆余曲折を経て同郷の後輩で幼馴染のつまみ枝豆とお笑いコンビ「カージナルス」を結成。『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)で活躍し、ビートたけしのたけし軍団に加入した。その後はたけし軍団の大番頭的なポジションで「殿」を支え、話術の巧みさを買われて現在は情報番組などでレギュラー出演している。