水森かおり (C)週刊実話Web
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『令和の“応演歌”』水森かおり~2年目のジンクスで多少悲観的になりました(前編)

――今年9月でデビュー28年目を迎えます。NHK紅白歌合戦にも19年連続で出場し、「ご当地ソングの女王」とも呼ばれる存在になりました。デビューから今日までを振り返ると?


水森 諦めないで良かった、というのが素直な気持ちですね。幼い頃から歌番組が好きでよく見ていました。昭和の歌番組にはアイドル歌手と演歌や歌謡曲の歌い手さんが一緒に出演されていましたよね。アイドルも好きでしたけど、同時に演歌・歌謡曲も聴いて育ったんです。漠然と歌手になりたいと夢見てはいましたが、やはり、そこはテレビの中の世界。現実的じゃないなって、年齢を重ねるにつれそう思い始めたんです。


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学生時代は英語が好きで、外資系企業の秘書になりたいと考え始め、アメリカ留学を経験したんです。ホストファミリーのクリスマスパーティーで歌うと、皆さんが涙を流して喜んでくれた。その瞬間、自分の中で蓋をしていた歌手になりたい夢が再燃し、歌手を目指すようになりました。


デビューが決まってからは、演歌は着物を着て歌うものだと思い着付け教室に通い始めたんです。ところが、所属事務所の長良会長から「名前も顔も知られていない新人が着物を着て、先輩たちと並んでも人目を引かないから」と、ドレスで歌うことになったんです。やはり、演歌は着物で歌うイメージが定着しているためか、お客様から「着物で歌ったほうが売れる」とアドバイスされることもありました。一方で、ドレス姿が定着すると、カラオケが趣味の80歳の方から、ドレス姿も髪型も私に成りきって発表会のステージで歌っていますというお手紙を頂くこともあります。そういう方々が、娘さんやお孫さんを連れてきてくださるのは嬉しいですね。

紅白歌合戦出場の切符を手に…

――デビュー後、すぐにブレイクしたんでしょうか?

水森 デビュー1年目は新人ということで、いろんな番組に出演させてもらったり、舞台にも立たせて頂きました。2年目を迎えると、ぱったり仕事がなくなったんです。2年目のジンクスとはよく言ったものですよね。1年目で結果を残せなかった自分に責任はあるのですが、多少、悲観的になることもありました。


――そこから現在に繋がるきっかけはありましたか?


水森 幸運なことに、カラオケ居酒屋など気軽にカラオケを楽しめるところが増え、ブームが起きたんです。憧れの存在だった歌手がより身近になり、お客様自らが歌う曲を選ぶような時代に変化しました。私の曲は、一聴すると簡単に聞こえるようで、皆様に歌って頂けるようになったんです。それから『東尋坊』という曲に出合い、そして次の『鳥取砂丘』がたくさんの方に支持され、初めて紅白歌合戦出場の切符を手にすることができました。


――紅白歌合戦の舞台は、他のステージとは全く違うものなんですか?


水森 それはもう特別な舞台です。周りにはスターばかり。よく初出場時のことを覚えていないという歌手の方がいらっしゃいますが、私の場合は緊張しすぎて、この瞬間を目に焼き付けようと思い、不思議なくらいすべてを覚えているんですよ。有り難いことに19回も出場させて頂いていますが、毎年、出場歌手発表の時期には胃がキリキリしますし、舞台に立つと毎回ドキドキしますね。


(以下、後編へ続く)
水森かおり(みずもり かおり) 1995年『おしろい花』でデビュー。19年連続で紅白歌合戦出場中。「ご当地ソングの女王」と呼ばれる。9月21日にアルバム『歌謡紀行21〜九十九里浜〜』を発売。