ブル中野 (C)週刊実話Web
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女子プロレス界のレジェンド・ブル中野〜懺悔、感謝、酒と男〜

ヒール(悪役)でありながら実力でトップの地位を占め、女子プロレスの歴史を塗り替えたブル中野。そんなレジェンドが現役時代から現在まで、思いの丈を語ってくれた!


――現在『ぶるちゃんねるBULLCHANNEL』というYouTubeの番組が大人気ですね。


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ブル中野(以下、中野)「私、YouTubeがどういうものなのか、どうするのかもまるっきり知らなかったんですけど、自分自身で好き放題できるということで始めてみました。私の懺悔コーナーというか、謝りたい、感謝の気持ちを伝えたいというのが、まず一番にあったんです」


――それはレスラー仲間にですか?


中野「今まで何も伝えられないまま、ここまで来てしまったので、改めて気持ちを伝えたいというか、懺悔したいというか(笑)。番組がなければ、『すいません、謝りたいんですけど会えませんか?』なんて言えないじゃないですか(笑)。それに、もともと私は聞く側で、聞きながら何かを得て一言ズバッと言うタイプなんです。だから、そういう意味でも『ぶるちゃんねる』は合っていました。台本を決めずに、その場の流れで聞いているうちに話が広がっていく。先輩には当時、聞けなかったことを聞くことができる。後輩にはずいぶん迷惑かけたから、謝ることが多いかな」


――見ているとブルさんも結構、歯に衣着せずに言いますよね。


中野「レスラー同士だから話せることがあるので、この番組を使って聞き出しています。ダンプ(松本)さんが全女(全日本女子プロレス)を辞めてタレントになるということで、実質的に『極悪同盟』が解散することになったので、しばらく2人の間で無言の時期がありました。番組に出ていただいたときダンプさんにそんなことを話したら、もう何とも思ってないし、謝らなくていいと。嫌いな後輩はいなかったと、おっしゃっていただけたんです。この番組のおかげでダンプさんとのわだかまりが解けました」

歌って踊れるアイドルレスラー

――番組ではプロレスラー以外のゲストは呼ばず、プロレスに特化しています。

「YouTube自体がキャンプやペットとか、特化してやっている方がほとんどなので、見る側がそれを求めているでしょうし、やっぱり私だったらプロレスですよね。でも今、登録者数が8万人なので、10万人を超えたらいろいろやってみたいなとは思います」


――ブルさんは技の宝庫でしたが、どうやって自身の技を編み出したんですか?


中野「誰かの技をまねするのは嫌だったので、ダンプさんからラリアット、体当たりを教えてもらった以外は、自分で技をつくっていこうと思っていました。当時、実況を担当していた志生野温夫さんに久しぶりにお会いしたとき、現役時代の私のイメージを聞いたら、『ブルはいつも技のことばかり話していたなぁ』とおっしゃったんです。アメリカに長期遠征したときも技の研究をしていました」


――ブルさんはWWF(現WWE)世界女子王座、WWWA世界シングル王座など、多数のタイトルを獲得していますね。


中野「私が世界一になれたのは、プロレスのことを常に考えていたからだと思います。普通の若い女の子だったら自分の時間を楽しみたいけど、私はプロレスのためにすべてを費やしていましたから」


――ブルさんの技を後輩には継承しないのですか?


中野「全女では、引退する人が後輩に技を伝えていたんですけど、いつの頃からかなくなってしまって。私の技を後輩たちが使ってくれることは、全然構わないんです。あえて継承しろとも言ってないけど、怪我をしないように使ってくれたらうれしいですね」


――ヒールに抵抗はなかったですか?


中野「まだ16歳だった私は、本当は歌って踊れるアイドルレスラーになりたかったんです。でも、会社から言われたことは絶対だったので承諾しました」


――本当はつらいことも多かったのでは?


中野「悪役は、握手しない、サインしない、素顔を見せないと、徹底的に成りきらなければいけないので、そのために体重も増やしました。しかも、悪役はMVPやベストバウト(年間最高試合賞)を取れないと会社から言われて。だったら、いつか必ずMVPを取ってやると、それを目標にやっていました。私が悪役だったことで妹が学校でイジメに遭って、親戚や家族にもつらい思いをさせてきた。だから、いつかみんなを笑顔にしたいと、良い方向にするために頑張りました」 『あれ、変だな』と感じていた

――ブルさんはデスマッチの先駆者でもありますが、現在の女子プロレスでデスマッチをやることについて、どう思いますか?


中野「今の子は爽やかに戦うなぁと思います。楽しんでデスマッチをやっている。憎み合ってないのに、ここまでできるのかと逆に感心しました。私たちの頃はもっとドロドロしていて、本当に憎み合ってぶっ殺そうと思ってやっていましたから。でも、私たちのやってきたことが、今の子たちに少しでも影響を与えていたらうれしいです」


――現在の女子プロレス界をどう見ていますか?


中野「新しいプロレスの時代だと思います。私たちの頃は、いわゆる三禁で、酒、タバコ、男は禁止。でも、破っている人は多かったです(笑)。私もお酒を飲んでいましたし、こっそりファンの男性の方と付き合ってました。今は規制がないけど逆にみんなクリーンです。私たちの時代は肉を付けて太っての戦いでしたが、今はシェイプアップして鍛えて、おしゃれですね」


――ところで、体調を崩して入院されていたそうですが…。


中野「はい、アルコール性肝硬変でした」


――お酒はだいぶ飲まれていたんですか?


中野「現役の頃から、昔は飲まないと仲間に入れないこともあって、飲むようになりました。お酒は大好きで、店をやっていたこともあるので引退後もよく飲んでいました。5〜6年前までは、どんなにお酒を飲んでも、肝臓は大丈夫だったんですよ。だけど年を取るにつれて、どんどん体の調子が悪くなってきて、自分でも『あれ、変だな』とは感じていたんですけど、まさか自分がそんなに悪くなるとは思ってもみませんでした。そのうち体は痩せていくのに、お腹だけぽっこり出てきて。その頃はつらいから朝から飲む、飲むと楽になるのでまた飲むという繰り返しでした」

看護師さんに母親と間違われて…

――病院にはいつ行かれたのですか?

中野「ある日、着替えているときに、旦那が私のお腹に気付いて『どうしたんだ、それ!』って。その後は毎日、旦那が病院の予約を取ってくれたんですけど、病院に行けば絶対に捕まっちゃう(笑)、というか入院するのが分かっていて、あえて先延ばしにしてたんです。でも、だんだん尿漏れまでするような症状が出て、観念して病院に行きました。肝硬変の自覚はなかったのですが、すぐに病院から家族が呼ばれたほどでした。腹水も相当たまっていて、もう少し遅かったら危なかったらしいです」


――どれくらい入院したんですか?


中野「2カ月弱です。私は退院したらまたお酒が飲めると思っていたんですけど、飲めなくなったのでびっくりしました」


――でも、回復して良かったですね。


中野「病院通いも1週間に1回が、1カ月に1回、今は3カ月に1回です」


――ブルさんは2010年にご結婚されましたが、なんと、ご主人は15歳も年下で、ムエタイの選手だったそうですね。


中野「以前に旦那が試合で怪我をしたとき、付き添って病院に行ったら、看護師さんに母親と間違われたことがあったんですよ(笑)。今は付き人みたいな感じです。身の回りのこととか仕事の調整とか、仕事場への車での送迎とか、食事以外は何でもやってくれます」


――素敵なご主人ですね。お酒を飲めないことはつらくないですか?


中野「今は全然飲まなくても生活できるし、飲まないことで時間を有効に使えるので、楽しんでいますよ。肝硬変になって、ずいぶん周りの人たちに心配をかけたので、その人たちのおかげで生かされているのだと思います。プロレスもそうですけど、やりたいことを何でもやってきて、いつ死んでもいいなんて思っていましたが、今は周りの人たちのために生きようと思っています。お金じゃない、時間が大事なんです」


――最後に『週実』読者に向けて一言お願いします。


中野「無理をしないで、そして、お酒を飲み過ぎないでください。まさか自分がと思っていても、私だって肝硬変になってしまいました。自分と自分の周りの人を大事にしてくださいね」


文/飯塚則子(ライスマウンド) 撮影/田中亮平(studio.R)
ブル中野 1968年1月8日生まれ。埼玉県川口市出身。1983年、全日本女子プロレスに入門し、同年デビュー。女子プロレス隆盛の80〜90年代、ヒール(悪役)レスラー軍団の『極悪同盟』や『獄門党』のメンバーとして、一世を風靡した。97年に引退。現在はタレント、プロレス解説、講演などで幅広く活躍している。身長170センチ、体重115キロ(現役時)。YouTube『ぶるちゃんねるBULLCHANNEL』は、毎週、月、水、金、土、更新。