(画像)TK Kurikawa/Shutterstock
(画像)TK Kurikawa/Shutterstock

落合博満「オレのやり方でやる」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第17回

現役時代は三度の三冠王に輝き、監督としても抜群の成績を残した落合博満。今でこそ球界のレジェンドとして敬意を表する人も多いが、かつてはその言葉少なでとっつきにくい印象から、いわれのない批判を受けることも多かった。


【関連】千代の富士「体力の限界…。気力もなくなり、引退することになりました」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第16回 ほか

今や引退したプロ野球選手の多くがYouTubeで番組を開設し、そこで現役時代の秘話を明かしたり、現状の球界への論評をしたり、何かと話題になることが増えている。


かの落合博満もそんな元プロ野球選手ユーチューバーの一人で、チャンネル名は『落合博満のオレ流チャンネル』という。落合の代名詞でもある「オレ流」とは、もともと本人が発した言葉ではなく、二度目の三冠王を獲得した翌年、1986年4月に発売された著書『なんと言われようとオレ流さ』(講談社)のタイトルとして初めて使われたものだ。おそらくは担当編集者による造語だろう。


とはいえ、前述のように自身のチャンネル名にしていることや、現役から監督時代を通して「オレのやり方でやる」「周囲の声はオレには関係ない」などと発言していることから、「オレ流」が落合という人間の本質を表した言葉であることには違いない。


しかし、現役時代にはそうした「オレ流」が、わがまま、傲慢と受け取られることも多かった。取材記者への応対はそっけないもので、これについては後年、自身で「人見知りだから気心が知れた相手としか話せない」などと明かしているが、「どうせ専門的なことを言っても大半の記者には理解できない」という本音もあったのではないか。

“オレ流”コメントを貫いた

ロッテ在籍時にはパ・リーグ自体の注目度が低かったこともあり、落合の態度もあまり問題視されなかったが、1986年12月にセ・リーグの中日に移籍すると、反目した記者による批判的な報道が目立つようになる。

89年1月に起きた「昼神事件」は、その代表的な事例だろう。長野県の昼神温泉で自主トレに臨んだ落合は、報道陣に「球団の決めた方針ではなく自分のペースで調整を行う」と宣言し、さらに「(早い時期から練習を)やってなかった人ほど、指導者になったらそういうことを言っている」とコメントした。


すると、報道陣は「星野仙一監督への当てつけ」と受け取り、スポーツ新聞各紙が「監督批判」と報道。球団が「罰金と謹慎」を伝えると、これに対して落合が「言ってもいないことで罰せられるぐらいなら即刻引退する!」と、いきり立つ騒動にまで発展した。


結局、この一件は落合にとって数少ない尊敬する人物であり、かつて中日で投手コーチを務めた稲尾和久が仲裁に入ることで収まったが、そもそも落合は星野の名前を出していないのだから、舌禍事件とは程遠い話である。おそらく落合が、普段から報道陣と普通のコミュニケーションを取っていれば、騒動にすらならなかっただろう。


これに限らず落合と星野の確執は、たびたびメディアに取り上げられた。実際には「良くも悪くも互いに干渉しない」という大人の関係だったようだが、当時は記者と懇意にしている星野に比べ、落合が「悪者」にされるような風潮が確かにあった。


落合が中日の監督として黄金期とも言える好成績を残しながら(8年間すべてAクラスでリーグ優勝4回、日本一1回)、それでも地元・名古屋に一定数のアンチが存在したのは、選手時代のネガティブな報道が尾を引いていたことが大きい。


監督時代の落合は、試合後の会見などで取材対応の機会こそ増えたが、相変わらず「オレ流」コメントを貫いた。

“勝つことが最大のファンサービス”

就任1年目の2004年5月11日、チームが最下位に転落した試合では、「今日の収穫は井端(弘和)の三塁ゴロ」と話している。

この試合終盤、逆転のチャンスに井端の三塁ゴロが併殺打となり、それは最大の敗因とも言えるものだった。いったいこれがなぜ収穫なのか。記者のほとんどはコメントの真意が理解できず、中には「井端に遠回しの嫌味を言った」と受け取る者もいた。


実際のところは「走者のいる打席では右方向への打撃のワンパターンだった井端が、しっかり引っ張るという新たな面を見せたことが収穫」との意図だったようだが、落合は自身の口で細かく説明しようとしない。


本拠地ナゴヤドーム(現在のバンテリンドーム ナゴヤ)での集客がいまひとつであることを問われても、落合は「勝つことが最大のファンサービスだ」とだけ繰り返した。


その究極と言えるのが2007年の日本シリーズ、勝てば日本一が決まるという試合で、8回まで完全試合を続けていた山井大介を降板させ、守護神の岩瀬仁紀へ継投した場面だ。


実際には山井がマメを潰していたなどの事情もあったようだが、例えば星野が監督だったら、どうであれ「負けても構わん!」と山井を9回のマウンドに送り出しただろう。


賛否両論が渦巻いた「非情采配」についても、落合は多くを語らず「投手のことはコーチの森繁和に任せている」としていた。


周囲がなんと言おうと、選手であれば三冠王を目指す。監督であれば日本一を目指す。シンプルすぎるほどの目標に向かって最大限の努力をするが、その一方で余計なことはしない。これが落合の本領なのであろう。


《文・脇本深八》
落合博満 PROFILE●1953年12月9日生まれ。東洋大中退。’78年にドラフト3位でロッテに入団し、選手時代は中日、巨人、日本ハムの計4球団に在籍。現役引退後は中日監督、その後は中日GMを務めた。