「断固として闘う!」田中角栄の事件史外伝『炭管事件と獄中立候補』Part2~政治評論家・小林吉弥

Part1で田中角栄は炭管事件に絡んでの収賄容疑で逮捕、収監されていた葛飾区小菅の東京拘置所の独房で、保釈決定がなかなか下りず、ジリジリしていたと記した。折から、すでに衆院は解散され、総選挙への立候補を「獄中」から表明していた田中だったが、選挙の投票日は日一日と迫るばかりで、あせりにあせっていたのであった。

保釈決定がなかなか下りなかったのは、時のGHQ(連合国軍総司令部)、とりわけ米国の横ヤリが入っていたことにあった。圧倒的多くの国会議員がGHQの意向には恭順の意を示していたのに対し、民主党1年生代議士の田中は意に沿わぬことには明確に反対を表明するなどで、国会では早くも「チョビひげ野郎」との異名をもらい、すこぶる威勢のいい男として聞こえていたことも大きな背景であった。

例えば、1年生代議士ながら民主党代表として本会議に初登壇すると、議会政治、経済政策、戦後復興の在り方などを堂々とブチ上げ、戦後日本の歩むべき道筋を提案したものとして、大きな話題にもなった。

その4カ月後には、自らの所属する民主党などと連立政権を組んだ社会党の片山哲首相が、臨時石炭鉱業管理法案(略して「炭管法案」と言われた)を打ち出したことに反対し、民主党を脱退して22名で同志クラブを結成するなど、行動派としても聞こえていた。脱退後は、政権に担いだはずの片山首相に対し、国土計画委員会で「(戦後の国民に対し)家を与えずして何が民主主義か」と迫り、タジタジにさせている。

「吉田茂は戦後日本の民主化にはふさわしくない」

そうした中で、社会党の左右両派の内紛が原因で片山内閣が潰れ、あとを継いだ芦田均内閣もまた「昭和電工事件」で、のちに田中と「角福戦争」で相まみえることになる当時の大蔵省主計局長・福田赳夫、元自由党幹事長・大野伴睦、そのうえで内閣の重鎮だった西尾末広副総理(のちに民社党委員長)が逮捕されるに及び、わずか半年余りで総辞職を余儀なくされることになった。

この芦田政権のあと釜をめぐっての政局の動きの中で、田中はGHQににらまれ、これがのちの保釈への強い横ヤリの原因になったということだった。

この時の政局は、本来なら、芦田内閣が総辞職すれば当時の野党第1党だった吉田茂・民主自由党党首が内閣を引き継ぐというのが「憲政の常道」だが、GHQが「吉田は保守反動で、戦後日本の民主化にはふさわしくない」との判断で、同じ民自党の幹事長だった山崎猛に肩入れしてきたことで混乱していた。

この「山崎首班」への動きは、「民自党内の反吉田グループがGHQと組んだもの」としての“陰謀説”も出たが、党の意思決定機関である民自党総務会で、田中は「山崎首班」に“待った”の大声を上げたのだった。田中はすでに同志クラブを解散、民主クラブを結成して吉田茂率いる自由党と合同した民主自由党に参加しており、党では選挙部長の一方で総務会のメンバーでもあった。

田中はこの総務会で、こうダミ声を張り上げたのだった。

「ええですか、みなさん! いかにGHQといえども、その国の総理大臣を誰にする彼にするというのは内政干渉そのものであります。過去、こんな例があっただろうか。これを、このまま許しておいていいものかどうか。日本の世論が、一体どう反応するかだ。それに、大体、本当にGHQがそんなことを言ってくるものかどうかだ。GHQが吉田首班でいかんと言うなら、わが民自党は堂々下野すべきであるッ。私は、断固として闘う!」

この田中の大胆なブチ上げに、「親GHQ」の他の総務の間から「黙れッ。チョビひげ野郎!」「若僧に事情が分かるのかッ」と野次、罵声が飛ぶ一方、「そうだッ、田中の言う通り。断固としてGHQと闘うべし!」との声も出て、総務会は騒然とした空気になったのだった。

こうした中、議論はやがて「山崎首班」派が劣勢となり、結局は吉田が民自党の少数単独政権として、昭和22(1947)年6月の退陣以来となる第2次内閣を発足させることになった。翌23年10月のことである。

小林裁判長が保釈の“英断”

吉田はここでの田中の元気ぶりに目を留め、内閣の発足に際して時の政務次官人事を担当させた林譲治副総理に、「あのチョビひげの若いのを、どこかの政務次官にはめ込むように」と“厳命”した。吉田の「ツルの一声」で、田中は1年生ながら法務政務次官に就任したということだった。

ところが、政務次官就任から1カ月も経たぬうち、突然、東京高検特捜部は、田中が「炭管法案」を潰すため炭鉱業者が集めた法案反対運動資金5000万円のうち、九州の業者から100万円の小切手を受け取ったとしての収賄容疑、さらにそのカネを政党関係者に配ったとの贈賄容疑で、田中の自宅、社長を務める「田中土建工業」本社の双方に家宅捜査を行った。そこから、逮捕、起訴をもっての収監、さらには「獄中立候補」表明へとつながっていくことになる。

総選挙まであと10日と迫った中で、ようやく保釈が決定となった。筆者の手もとには、炭管事件の東京地裁、東京高裁の裁判記録があるが、その保釈は地裁刑事第6部の小林健治裁判長の次のような“英断”で行われている。

「判決が出るまでは、無罪である。その間、政治家は選挙で死命を制せられるべきである」

あのとき、田中が保釈されず、総選挙への出馬もなかったなら、田中のその後の人生、この国の政治の形そのものもまた、大きく変容していたと言ってよかったのだった。