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『令和の“応演歌”』義貴~民謡再挑戦で決心した『江差追分』日本一(前編)

義貴
義貴 (C)週刊実話Web

――北海道三大民謡(江差追分、道南口説節、十勝馬唄)で全国大会日本一、10冠達成と素晴らしい実績を残されました。全国で10冠を成し遂げた方は、義貴さんを含め5人もいないそうですね。その成績が民謡界から歌謡界へ進出するきっかけとなり、2016年に演歌歌手として『蝦夷地羽幌港』でCD全国デビュー。順風満帆な歌手人生に見えるのですが、実際はどうだったんですか?

義貴 一度民謡の世界から離れたこともあり、CDデビューしたのが37歳の時と遅いんです。ですから決して順風満帆ではなく、結構な荒波でしたよ(笑)。

祖母が民謡歌手、父が民謡の尺八伴奏者、母も民謡歌手という家庭で生まれ育ち、両親が民謡会の会主を務めていたんです。夜になれば、民謡会に連れて行かれたそうです。幼い頃から民謡がある生活が当たり前の環境で育ったんです。後に聞いた話では、三輪車に乗りながら民謡を口ずさむような子供だったそうです。小学校4年生から本格的に民謡を習い始め、地元北海道の大会では何度も優勝させて頂きました。

ただ、中学生くらいになると、周りの友達は部活だったり、アイドル歌手だったりに興味を抱くようになりますよね。民謡は年配の方がやるものだといった目で見られたこともあり、自分の中でも敬遠したこともあった。でも、友達は応援してくれました。

民謡の世界を離れて分かったこと

民謡の大会では、中学校3年生までが少年の部で、高校に上がると一般の部になるんです。中学3年生で全道(北海道)優勝し、高校生になり、一般の部へ出場すると、予選も通りませんでした。子供と大人ではこんなにも差があるのかとショックなほどでした。

子供の部では歌唱力ももちろん問われますが、子供らしさというのもまた審査対象になるので、そういうものを含めた成績だったのかと痛感した。また、それまで自分は民謡を自然と歌う環境にいただけで、自分から歌いたいわけではなかったのではないかという疑問が頭に浮かんだんです。そして、高校2年生の時に民謡の世界を離れました。

――民謡をやめてどうしたんですか?

義貴 民謡と並行して、小学校から空手とサッカーをやっていました。高校では、強豪校のサッカー部に所属していたので、民謡をやめてからはサッカーの世界でプロを目指す決心をしました。卒業後も働きながらプレーを続けましたが、限界を感じきっぱりサッカーをやめました。

それから数日経ち、民謡歌手の母から「どこへ行っても義貴さん元気かい? と皆さんが声を掛けてくれるよ。もう一度民謡をやってみないかい」と誘われたんです。それが25歳の時。振り返れば自分がしたいことをやってきたし、民謡歌手である母が元気に声を出せる、そして、父が尺八伴奏者をできるうちに親孝行でもう一度民謡をやってみようと決心したんです。

でも、中途半端で終わりたくなかった。民謡の世界で一番難しいとされ「民謡の王様」である「江差追分」(※)で日本一になろう。そう心に決めて、民謡の世界に再度挑戦しました。(以下、次号)

※江差追分 日本の民謡では難しい順番として「1に追分、2に博多、3に米山、4に安来」といわれる。また、江差追分は無形民俗文化財であり、七節七声で民謡の中で唯一譜面がある。お母さんのお腹の羊水の波長と似ているところがあるとされ、江差追分を聞いた赤ちゃんは子守唄のように寝ることがあるという。

義貴(よしき)3月26日生まれ、北海道小樽市出身。1996年〜2014年、北海道三大民謡の全国大会日本一10冠達成。2016年、『蝦夷地羽幌港』でCD全国デビュー。現在はテレビやラジオなどに出演。

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