「アントニオ猪木オリジナル」の枠を超え、さまざまな状況で使われるほど「1、2、3、ダー!」はポピュラーになった。プロレス界においては「1、2、3、ファイヤー!」や「3、2、1、ハッスル、ハッスル」など派生形も誕生している。
アントニオ猪木といえば「1、2、3、ダー!」というほど、このフレーズは世間一般にまで浸透した。もともと「ダー!」が、試合に勝利した猪木の雄叫びであることは、プロレスファンなら誰もが知っているであろう。
最初から「ダー!」と言っていたのか、それとも猪木が「やったー」とか「ダァッシャー!」などと叫んでいたものが、いつの間にか「ダー!」に統一したのかは分からない。きっと猪木自身も、勝利の瞬間に感情を爆発させたというだけで、特に何かしらを意識して発声していたわけではないだろう。
絶対神に祈りを捧げる「ダー!」
1976年12月、パキスタンで行われたアクラム・ペールワンとの異種格闘技戦。アームロックでアクラムの腕を折り、ドクターストップに追い込んで勝利した猪木だったが、かつてルー・テーズやジョージ・ゴーディエンコを破ったと吹聴していた国民的英雄の敗北を目の当たりにして、観衆は暴動寸前となった。
しかし、勝ち名乗りを受けた猪木が「ダー!」と両腕を上げると、その姿がイスラムの絶対神であるアラーに祈りを捧げる仕草と重なり、さらには絶叫が「アラー」と聞こえたことで観客たちの怒りが収まった――。
これは猪木自身が語った逸話だが、改めて試合の映像を見てみると、決着した直後のリング上は両陣営が入り乱れるばかりで、肝心な「ダー!」の場面は確認できない。
この映像の後に勝ち名乗りを受けた猪木が、そのタイミングで「ダー!」とやった可能性もあるが、さすがに「観客の暴動が収まった」というのは、やや誇張の混じった表現である可能性は捨てきれない。
とはいえ、そんな話が信ぴょう性をもって語られるほど、全盛時の猪木の「ダー!」には一種の神々しさのようなものが感じられたのも確かである。
さて、カウント入りの「1、2、3、ダー!」が初めてファンの前で披露されたのは、1990年に東京ドームで開催された「スーパーファイトin闘強導夢」の全試合終了後、リング上でのことであった。
この大会、前半こそは全日本プロレス勢の歴史的参戦により爆発的に盛り上がったが、セミファイナルの北尾光司デビュー戦は、筆舌に尽くしがたい大凡戦となってしまった。
そうして迎えたメインイベントで、猪木は坂口征二との黄金タッグを復活させ、新世代の橋本真也&蝶野正洋と対戦。しかし、猪木は前年の参院選を経ておよそ半年ぶりのファイトであり、坂口も社長業優先で試合は久々とあって、20代半ばで勢いに乗る橋本と蝶野が終始攻勢に出た。
最後は何とか猪木が延髄斬りで蝶野から3カウントを奪ったものの、黄金コンビは全盛期の輝きからはほど遠い内容に終わった。
そんな試合後、猪木がマイクを手にしたときには、ついに「引退宣言」が飛び出すものと覚悟したファンも、決して少なくなかったはずだ。しかし、そうはならなかった。
以下に、猪木のマイクパフォーマンスを書き起こしてみよう。
「1、2、3、ダー!」の真の生みの親は…
「ええ、どうも…。本当にありがとうございます」
「プロレスがまた再び、必ず大ブームが起きまして、私が長年夢だった本当の…。プロレスを通じて、スポーツを通じて世界平和を必ず実現します」
「橋本と蝶野、もう今日は立っているのがやっとでした。本当に強くなりました。でも、俺たちは命が輝き続ける限り闘い続けます。ありがとうございました! また、よろしくお願いします!」
「それでは約束どおり、私の勝ったときしかやらないポーズ…最近は力が弱くなりましたが、みなさんの心を一つに。一発気持ちイイやつをやらせてください。ご唱和願います。1、2の3でダーです」
「1! 2! 3! ハイッ! ダァーッ!」
実は「よろしくお願いします!」と言った後、いったん猪木はケロちゃんこと田中秀和リングアナ(現在の活動名は田中ケロ)にマイクを戻しており、改めて促されて「1、2、3、ダー!」につながっている。
そういう意味では「1、2、3、ダー!」の真の生みの親は、ケロちゃんだったとも言えようか。
ともかく発言全体を通してみると、猪木はどこか現役から一歩引いたふうでもあり、「1、2、3、ダー!」は「孤高のファイター」から「みんなの猪木」に生まれ変わった証しであったのかもしれない。
《文・脇本深八》
アントニオ猪木
PROFILE●1943年2月20日生まれ。神奈川県横浜市出身。身長191センチ、体重110キロ。 得意技/卍固め、延髄斬り、ジャーマン・スープレックス・ホールド。