芸能の仕事に携わる人間が最も気を使うのは、今も昔も「共演NG」だ。感情むき出しの激情型が多かった昭和の芸能人たちは、周囲がドン引きするほどの対立を仕事に持ち込むケースも少なくなったという。当時の『週刊実話』は、そんな芸能界の「犬猿の仲」を暴露していた。
- 昭和57年2月11日号掲載『ああ人にいえない新・犬猿の仲』(3)年齢・肩書等は当時のまま
ホリプロの、今日ある基礎づくりに貢献したのは和田アキ子である。
でも、もしも日本テレビ『スター誕生!』のスタッフが、渡辺プロに対抗できるプロダクションにホリプロを育てるべく、そこでチャンピオンになった有望新人の、とくにめぼしいのを供給しなければ、果して今日のホリプロがあったかどうか疑わしい。
供給された第一号が、じつは森昌子だったのだ。昌子は期待どおり、47年のデビュー曲『せんせい』を大ヒットさせた。山口百恵は、それにつづいて送り込まれたのだ。
堀社長は昌子をかわいがった。宇都宮から上京してくる母親を、あちこち案内して歩いたことも珍しくない。
「歌唱力は天才的で、過去はとにかく、いまの歌手で昌子に及ぶものなんかいやしないよ。だから顔なんかどうでもよかった。こんなこというと昌子のやつ怒るかな。だがねえ、その顔もジッとみていると、じつにかわいいんだね、あいきょうがあるんだよ」
だれはばかることなく、こういった。
それが百恵のこととなると、態度は一転する。母親を観光名所に案内するなど、とんでもなく、だいたいプロダクションで顔を合わせても挨拶を交わすことだってめったになかった。ほめことばも、歌手やタレントとして認めたものとはまるで異質だった。
「文字どおり若さあふれる健康美、あれが魅力的だね。その象徴が、ミニスカートからのぞく大根足。ズン胴ではなく、スポーツできたえられ、足首がキュッと締まっているところがとくにいいね。いずれ大成するよ」
石川さゆりも、その百恵と同じ部類に入れられていた。
「歌のテクニックはすばらしいね。が、外見どおり地味で、おとなしい娘ですよ。でも、かえってそこがいいのかもしれない」
この程度しかほめない。給料も、百恵やさゆりより先輩で、興行関係でのかせぎが大きかったことから、昌子が当然のこととして群を抜いていた。
百恵が追いつき追い越したのは、昌子が停滞していたのに反し、圧倒的な人気を得て、レコードも出せば確実に五十万枚を越すようになってからだ。つまり、引退の二、三年前のことだった。
その百恵以上に冷遇されたのは、さゆりだ。百恵は歌よりもまず芝居で、その作戦から映画やテレビに積極的に売り込まれ、おかげでホリプロがやらなくとも映画会社やテレビ局が宣伝してくれたきらいもあった。
しかし、さゆりはあくまでも歌で勝負をかけられていた。いまのレコード会社は、ろくに宣伝してくれない。新しいレコードが出たとき、宣伝部員がそれを手に、マスコミを歩く程度だ。
その作業も、レコード会社によってはプロダクションに押しつけるケースも決してまれではない。さゆりが、結婚したB氏に心を寄せるようになったのは、ホリプロの一員としてB氏が積極的に、しかも自弁に等しい状態でさゆりのために宣伝に走りまわってくれたからだ。
だが、堀社長は最近までそれを知らなかった。辞めたのは、個人的な理由であって五十二年十二月だった。さゆりが大ヒット曲『津軽海峡冬景色』を歌う晴れのステージはみずじまいだった。一年八ヵ月しかホリプロにはいなかったことになる。でも、さゆりはそれを感謝し、交遊を断たなかった。おかげで結婚できた。
しかし、堀社長はそれを歓迎しなかった。交遊関係にあること自体、断とうとした。
ふたりは、いわゆる婚前旅行であったのかグアムへ出かけている。さゆりは、休暇をとっていた。B氏はフリーの身である。だからホリプロとしては、その事実が発覚しても、表だってきついことはいえなかった。だが、裏では激しく責めたてた。ある中堅幹部は証言する。
「スター歌手ならば、その自覚のもとに行動するようにということが、叱った主な内容ときいています。だが、ホンネは元いたBクンとずっと交遊を続けていたのを知らずにすごしていた、その腹いせでしょうね。おそらくハッタリでしょうが“やめたいのならばいつでもやめさせる。プロダクションとして責任が持てんものな”とのどなり声もきこえましたよ」
さゆりの退社意志は、おそらくそのときにかたまっていたように思える。
なぜならば、B氏との結婚を、そのときにはすでに決意していたからだ。
移籍も考えていた石川さゆり
プロダクションというところは、ご都合主義が目立つ。冷遇しておいて、いったん花を咲かるせと、これまでの投資は莫大だったなどの理由を示し手離そうとしない。
だから、たとえば女性歌手だと独身時代が続き、不幸な末路をたどる。だが、そのときにはなんらの面倒もみないのだ。
さゆりは、意志が強かった。しかし、これもホリプロが昌子中心で動き、さゆりに不遇を重ねてきた結果なのだ、と皮肉な見方をする芸能ジャーナリストは少なくはない。
「下積みを続けられれば、意志も強くなるさ」と、ストレートな批判もきける。
おかげで、さゆりはB氏への恋を実らせることができた。そして、契約切れを待ってホリプロと決別、コロムビア・ミュージック・プロダクション(CMP)への移籍を希望した。
CMPはコロムビア・レコードの系列芸能プロだ。さゆりはコロムビアの専属である。CMPがその希望をかなえるのには、なんらの支障はないはずだった。
だが、ホリプロは契約が切れたさゆりなのに、クレームをつけ、二の足を踏むこととなる。
コロムビア・レコードの正坊地隆美会長は、さゆりが中学生でデビューしたときから世話をしてきた恩人だけに、さゆりも「なんとかしてくれるはず」といった期待をもっていたに違いない。しかし、こういって冷たくつっぱなされた。
「CMPで引き受ける考えはありません。双方(ホリプロとさゆり)の話し合いがたりなかったようですね。うちの専属でもあることだし、両者を説得してなんとか解決の道をみいだしたいと思っていますが…」
百恵のときは、百恵が“ドル箱”だったにもかかわらず、すっきりと引退を認め、「すばらしく話のわかる社長さん」と、ファンから絶賛された堀社長なのに、なんでさゆりに対しては手のひらを返す態度をとったのだろう。
今後、まだまだかせげると読んでのことではない。昌子に及ぶ影響を考えてだった。
昌子も辞めたいといっている。最近、ヒット曲に恵まれないのはプロダクションの責任、ということも語っているのだ。でも、なんとか説得して引きとめてきた。
“核”を失う影響を考えてだった。給料を上げたに違いない。そういうこともあって、昌子はさゆりの行動をひどくうらんでいる。
「あれで、またまた思いどおりにならなくなった」
親しい友人に、こういって嘆いていたときく。
さゆりはさゆりで、これまでいい思いをしてきてなにさ、との態度を昌子に向ける。
「わたしたちの犠牲のうえにあぐらをかいてさ。給料に見合うだけの働きをしたらどうなの、といいたいな。わたしなんか、いくら稼いだってなんら報われなかった」
おとなしいさゆりが、こと昌子についてとなると、遠慮しなくなる。
だが、これはなにも昌子に責任があるわけではない。ホリプロの姿勢の結果だったといえるだろう。
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