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「新しい国家改造論」田中角栄の事件史外伝『史上最強幹事長―知られざる腕力と苦悩』Part4~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

昭和41(1966)年12月、田中角栄幹事長は、閣僚を含む自民党議員のスキャンダル続出という「黒い霧」の責任を取る形で辞任した。後任の幹事長には、佐藤栄作首相と気脈を通じる福田赳夫が就いた。

幹事長更迭が決まった直後、田中は「今回の一連の不祥事で、直接、何も関係ないのに責任を取らされるのは納得できない」と憤る取り巻きに、こう言った。

「いいんだ。佐藤政権の泥は俺がかぶる」

しかし、あれだけ幹事長就任時に快哉を示していた田中だったゆえ、芯はよほどくやしかったのか、親しい議員に「政治家なんて長くやるもんじゃないな」と表情を曇らせたものだった。

さて、野党は「黒い霧」を受け、この期なら選挙に勝機ありとして、衆院の解散・総選挙を迫ってきた。佐藤首相としては「追い込まれ解散」となって不利な選挙ではあるが、さすがに世論も「国民に信を問うべき」との空気が高まっていたこともあり、同年12月27日に解散、翌42年1月29日の投開票となった。

しかし、選挙結果は一般の予想を裏切り、自民党は現状維持でからくも危機を脱して、福田は幹事長としての「初陣」を飾ることができた。自民党内における福田株の上昇は、田中とは近い将来の「天下取り」をめぐるライバル関係と見られていただけに、田中株の低落を意味することにもなりかねない。田中の胸中には、この時点で初めてライバルとして、福田の存在が、重苦しくクローズアップされてきたということであった。

「世の中でゴルフくらい面白いもんはないッ」

一方、幹事長を辞めた田中は、砂防会館の個人事務所ですごす時間が増えた。「幹事長を辞めてもワシは忙しいんだ」とうそぶきながら、誘われた麻雀などはやらず、かろうじて事務所を訪れる若手議員と唯一の趣味であった将棋を指す程度であった。

そんな折、佐藤首相から勧められたのがゴルフであった。子息の佐藤信二(元通産大臣)が、筆者にこう言ったことがある。

「田中さんには、親父(佐藤首相)が一番初めに勧めたようだった。親父から聞いたところでは、田中さんも当初は『分かった、分かりました。そのうち』と言っていたという。もっとも、ほかの場所では『あんなもん誰がやるか』と言い張っていたようだったが…。

ところが、一度コースに出てからはすっかり病みつきになり、今度はあちこちで『世の中でゴルフくらい面白いもんはないッ』と言い切っていたらしいですね。ついには『やるからにはシングルを目指す』と、意気込んでいたそうです」

一度コースに出てゴルフの面白さに目覚めた田中は、秘書に命じていわく、「ゴルフ関係の本をありったけ買ってきてくれ」であった。ここでも、取り組む物事すべからく中途半端が許せない田中の性格が出ていた。結局、秘書は永田町から赤坂近辺の書店を歩き回り、入門書、実用書からゴルフ雑誌、果てはゴルフの歴史書までを買い集め、積み上げるとゆうに1メートル、重さはじつに3貫目(約11キロ)もあったという。

そのうえで、まずはTBSのゴルフ・スタジオに通い、3カ月間にわたりレッスン・プロの指南を受け、連日、なんと500発の打ち込みに励んだのだった。そのためか、ゴルフを始めてわずか半年でハンディ18までいき、過去のスコアカードは1枚残らず女性秘書に整理させるなど、ここでも性格の几帳面ぶりを明らかにしたものだった。

当時、政治部記者が言っていた。

「田中は『今日はコースに出る』と決めたら、雨、風、関係なしで出かける。『気象庁の言う通り動いておったら、何もできやせん』とも言っていた。バンカーショットが得意で、最後のパターは苦手のようだった。『攻めには強いが、詰め、守りに弱い』とされていた田中の政治手法と、一致していたのが面白かった」

ゴルフ三昧で幹事長更迭の無聊を慰めていたさなか、田中を買う自民党議員の間から「あれだけの男を、無役で遊ばせておくのは惜しい」との声が出始めた。昭和42年、年が明けて間がない頃であった。

「新しい国家改造論をまとめてみたい」

とくに、田中と同じ「吉田(茂)学校」出身で文教政策に圧倒的な影響力を持ち、のちに衆院議長を務めることになる坂田道太、田中とは初当選同期で、のちに運輸大臣、郵政大臣などを歴任することになる原田憲の両人が熱心で、田中のもとを訪れてこう説得した。

「角さん、あんたは若いときから国土政策にずいぶん汗を流してきた。人口過密の都市問題、対して地方の過疎問題が厄介になってきている。どうです、あなたを長とした調査会を自民党内につくり、こうした問題に真剣に取り組もうじゃないですか」

これを聞いた田中の決断は早かった。

「よしッ、やろうじゃないか」

長年の思いであった都市と地方の格差をなくすため、田中の中に「新しい国家改造論をまとめてみたい」との思いがフツフツと頭をもたげてきたのであった。

昭和42年3月、自民党内に「都市政策調査会」が立ち上がった。会長は田中角栄、のちに発表する「日本列島改造論」の原型が、ここで形づくられることになるのである。

(本文中敬称略/Part5に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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