新浜レオン (C)週刊実話Web
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『令和の“応演歌”』新浜レオン~父の背中を見て決めた演歌の道(前編)

――令和元年5月1日のデビュー以来、同年の日本レコード大賞新人賞受賞、デビューから3曲連続でオリコン週間、演歌・歌謡曲ランキング1位とまさに飛ぶ鳥を落とす勢いです。


幼い頃から演歌歌手を目指していたのでしょうか?


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新浜 小学校2年から野球を始め、甲子園出場、プロ野球選手になることを夢見て、野球一筋の日々を過ごしてきました。高校2年時には千葉県大会でベスト4。3年時にはキャッチャーでキャプテンを務めました。しかし、憧れの甲子園の夢が絶たれました。その際はしばらく頭が真っ白になり、野球をテレビで見るのも辛いくらい落ち込みました。


僕の姿を見かねた演歌歌手の父が、自らのコンサートに誘ってくれた。父が歌い、多くの方に感動を与えている姿を見て、野球の夢が絶たれた悔しさを歌手としてのエネルギーにしようと決めました。そして、父のカバン持ちや運転手などを務めるようになりました。ある時、父のレコーディングに同行すると、僕の中では世界一歌が上手い憧れの父がディレクターさんからダメ出しされていた。その時、苦労を家庭内で一切口にせず、歌一本で家族を養ってくれた父の偉大さを痛感しました。


――お父さんのカバン持ちをするまで演歌に触れることは少なかったんですか?


新浜 家では演歌歌手の父の影響で幼い頃から演歌・歌謡曲のテレビ番組、車に乗れば演歌が流れるような環境で育ちましたから、演歌を歌うことは自然なことでした。

売り込みがなかなか上手くいかず…

――演歌歌手を目指すことにお父さんは反対しなかったんですか?


新浜 父は賛成してくれましたが、母には反対されました。野球を全力で応援してくれていたのに、なぜ反対するのか分からなかったんですが、父と二人三脚で歩み、どれほど歌手で食べていくのが大変かを理解していたんです。母からは「大学へ入学し、それでも歌手になりたいなら」と条件を課されました。


大学入学後も、父の運転手をしながら学業との両立をしていた。父が出演した番組のプロデューサーさんから声を掛けていただき、千葉テレビでアシスタントMCを務めることになった。それでも母は歌手になることを認めてくれませんでした。そこで大学のミスターコンテストに出場することを決めたんです。自己PRのコーナーで、同年代に演歌・歌謡曲を伝えるチャンスだと思ったんです。


当日は、森田公一とトップギャランさんの『青春時代』を歌いました。会場を握手しながら練り歩くと盛り上がり、グランプリを受賞しました。母もそこで僕の本気度を理解してくれた。就職活動の時期になると、野球で培った礼儀作法などを活かし、公務員になってほしいとも言われましたけどね。ただ、所属事務所もレコード会社も一切決まらず、4年の時にデモテープを作り、いろんな会社へ売り込みましたが、上手くいかなかった。


諦めかけた時、父に現在の事務所を紹介されたのです。ビーイングはポップスに強く演歌・歌謡曲のイメージは全くない。野球をやっていたため、色は黒く、体も大きく、短髪でした。山本譲二さんのような演歌の王道こそ自分のアピールポイントだと思っていたんです。ところが、事務所の方から「歌は良いんだけどね」と言われてしまった。